盗賊二人打ち殺しのこと

1追剥が休んだ青梅橋.jpg
2狐塚(神送り塚)の位置.jpg
3強盗に遭遇したところ_青梅橋_狐塚_三木.jpg

タイトル (Title)

盗賊二人打ち殺しのこと

詳細 (Description)

 幕末です。明治維新寸前の慶応4年(1868)閏4月16日のことです。現在の多摩都市モノレール桜街道駅から青梅橋にかけての桜街道(旧青梅街道)での出来事です。
 当日は晴れ、午前10時頃です。芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛が田無村へと出かけました。青梅橋を渡って小川村へ入ります。人家はなく、野中の往来でした。そこで、二人の男に出会いました。ひとりは大小・袴を着用、もうひとりは脇差を帯びています。呼び止められて、いきなり
 「金子を差出せ」
 ことによったら、斬り殺されるかも知れない気配です。仕方なく、所持金10両余を差し出しました。しかし、大金です。このままでは済まされません。芋窪村の二人は様子を見ながら、青梅橋の茶店まで戻ります。
 店の中を見ると、さっきの二人が休んでいます。弥五兵衛は、これこれしかじかと、いきさつを茶屋の主へ話し、すぐさま、芋窪村へとって返して、身内や村役に知らせました。
 芋窪村の村人達は、直ちに、早鐘・竹洞を吹き立てました。それを聞いた隣村、最寄の村々から多くの村人達が青梅橋の茶店へと押出しました。店の主に聞くと、
 「往還 西ノ方へで向いた」
 とのことです。
 大勢のもの共はよしとばかり、追いかけます。三ッ木村の残堀裏で追いつきました。両人へ掛け合ったところ、申し訳ないとのことで、奪い取られた金子を取りもどしました。そして、大小・脇差を共に取上げて、芋窪村と蔵敷村の地境である、狐塚へ引き据えたのです。
 「打首にする、覚悟をせい」
 と申し聞かせると   
 「是悲なき次第につき、あい任せる。ついては、酒を頂戴したい」
 と申します。そこで、青梅橋から酒一升を取寄せ、差し出しました。
 両人で、呑み終ると、袴着用の方が謡をうたい、
 「最早、覚語よろしい」
 と云いましたので、彼が差していた刀で、砂川村の材右衛門が首を打落し、脇差を帯びた壱人は芋久保村の銀蔵が首を切りました。そして、上着を剥ぎ取り、その場へ埋めました。
 周囲を砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷の5ヶ村、人数、およそ5~6百人もが相い集り、取り巻いて居りました。「目覚敷い事」です。
 これは「五ヵ村役人立会決評之上取計候也」と結びます。
 東大和市に伝わる『里正日誌』慶応四年辰閏四月十六日 「賊徒弐人打殺候始末事実」の記事を意訳しました。この記事は、別に、芋久保村の名主から正式に韮山代官所に出された報告書があり、その説明書になっています。正式な報告書は次のように記しています。には、次のように、芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛は農兵であることが記されています。
 辰閏四月十八日盗賊打ち殺しの儀に付き芋久保村より届け書
 恐れながら書き付けを持って御訴え奉り申し上げ候
 武州多摩郡芋久保村役人惣代名主五郎左衛門申し上げ奉り候
 近頃物騒に付、兼ねて御触達之趣も有之、既に御出役様御
 廻村もなされあり候程の義にて、当十六日朝五ッ時頃村方
 農兵其外人足引連、組合場所田無村御出役様御旅宿江罷
 越候途中、村内家少々久保原にて、強盗弐人、内壱人は
 廿四五才壱人は廿才位に相見へ候、先立候農兵並びに人足
 共懐中物其外相渡すべく旨申し、両人共に、連れだって抜刀し相掛り候に付
 あい驚き罷り在候内、追々駈付盗賊両人共打倒、抜刃は大
 勢にて踏折召連御訴申上げべく候と存候内、両人共相果申候
 間、名住所等穿鑿(せんさく)およひ候得ども、更に手掛り相知不申、
 其段御出役様へ御訴申上べく御旅宿先承り候ところ、御帰府
 の趣に付、死骸並びに踏折刀共其儘仮埋に仕置、とりあえず此
 段御訴奉申上候、以上
         武州多摩郡芋久保村
               役人惣代名主 五郎左衛門
        慶応四年閏四月十八日
江川太郎左衛門様 御役所
 もう一つ記録があります。隣接する中藤村の指田氏の日記です。次のように記されています。
 「閏4月17日、青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出合い、此の日、此の辺の農兵の者仕度いたし出たる所なれば、追いかけ搦め捕りて、蔵敷前の神送り塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切り其処に埋む(指田日記 事件の翌日に記録か。神送り塚=狐塚)。
 以上から、この事件の真相は三つの記録を合わせると実態が浮かんできます。
 芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛は縞買い=大島紬を扱う関係者で農兵であることがわかります。一方の脇差を帯びた人、大小・袴を着用し、謡をうたう人はどのような人なのでしょうか? 慶応4年(1868)2月4日、徳川慶喜は家臣に随身の自由を認めました。幕臣は侍を捨て江戸に残り新たな仕事を探すか、帰農するか・・・・など、特に二・三男は身の処し方に途方に暮れたと思われます。
 村人達も、次の時代はどうなるのか不安な中で、日々の対応を迫られていたと推測できます。
 この事件は、そのような空気の中で起きました。江戸城から35キロの地点での出来事です。
 また、公文による報告書と実景との違い、周辺五ヵ村の名主達が揃って立ち会っての事故の扱い、など、当時の事件の処理、文書の書き方にも興味が寄せられます。
 参考までに、慶応4年(1868)の出来事を整理します。
慶応4年(1868・9月から明治)
・1月3日、鳥羽・伏見の戦い。
 旧幕府・会津・桑名と薩摩・長州軍の衝突。旧幕府側敗北。戊辰戦争始まる。
・1月7日、大坂城の慶喜は会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(さだあき)を伴い大阪脱出。
2月
・2月3日、天皇、親征の詔を発布。大総督をおく。
・2月4日、徳川慶喜、家臣に随身の自由を認める。
・2月7日、芋久保村に歩兵14名が宿泊(指田日記)。
・2月8日、歩兵500人が八王子に宿泊(指田日記)。
・2月12日、江川太郎左衛門が支配地絵図、石高帳、人別帳をもって桑名宿へ出頭(里正日誌10p59)
3月
・3月1日、近藤勇が将軍御内意手許金5000両の軍用金と大砲2門、小銃 500挺をもって
 「甲州鎮撫隊」(甲陽鎮撫隊)をひきいて、東征軍の東山道先鋒を迎撃すべく江戸をたつ。
・3月14日、勝海舟・西郷隆盛会談 江戸城総攻撃中止
・3月14日、天皇、五箇条の誓文および国威宣揚の宸翰(しんかん)発布
・3月20日、高木村、蔵敷村への府中宿加助郷通知(里正日誌)。
・3月23日、夜、砂川村久保と云う所にて、同村の者、鎮炮にて人を打ち殺す(指田日記)。
・3月24日、中藤村周辺で博徒・貧民らが「昼食」の強要、「押借」をする。
   勝楽寺村から中藤「御林山」に移動、「金堀穴」に立て籠もる。(村山市史下p5)
4月
・4月3日、近藤勇が大本営・板橋出張所に出頭、拘束される。4月25日、板橋庚申塚で処刑される。
閏4月
◎閏4月16日、今回事件
・閏4月17日、青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出合い、此の日、此の辺の農兵の者仕度いたし出たる所なれば、追いかけ搦め捕りて、蔵敷前の神送り塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切り其処に埋む(指田日記 事件の翌日に記録か。神送り塚=狐塚)。

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Citation

“盗賊二人打ち殺しのこと,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1733.