清水の伝兵衛地蔵さん
タイトル (Title)
清水の伝兵衛地蔵さん
詳細 (Description)
お地蔵さんは村人達の身近な祈りの対象でした。道路が広げられたりして、多くが元の場所から遠ざかってまつられています。そんな中で、道端に居られる数少ないお地蔵さんが清水の伝兵衛地蔵さんです。『東大和のよもやま話』はこう語り出します。
「志木街道が狭山と清水の境で大きくカーブする一角にお地蔵さんが立っています。身の丈六十センチメートルの可愛いいお地蔵さんですが、伝兵衛地蔵と呼ばれています。建立はわからないのですが、台座に享保・宝暦の年号が刻まれており古さを物語っています。
昔、清水村に代々伝兵衛を名乗る旧家がありました。分家のせがれが行方不明になり八方手をつくして尋ねましたが見つかりません。心配した本家の伝兵衛さんはお地蔵さんを建てて祈願したところ、まもなく無事に分家のせがれは帰ってきました。喜んだ伝兵衛さんはお地蔵さんを自分の屋敷に移して供養をしました。
村の人も無事に子供を返してくれたお地蔵さんを伝兵衛地蔵と呼んでおまいりするようになりました。(中略)今は土地の人でも伝兵衛地蔵の名を知る人はいなくなりました。誰いうとなく子育て地蔵と呼んでお参りしています。幼な児の健康を願って、ヨダレ掛けや帽子が数多く重なって、いつの世も変らぬ親心をしめしています。近頃は亡くなった水子供養におまいりする人もあると聞き、お花や、お供物が絶えることなく供えられています。(中略)地元の人達にブロックで囲んでもらい、魔のカーブの守り神となっています。」
赤いよだれかけが、いつの間にか新しく取り替えられています。ご近所の方々の気遣いです。
台座は摩耗していますが、享保11年(1726)、宝暦4年(1754)、宝暦13年(1763)、明和(1764~1771)、寛政13年(1801)の年号が彫られています。造立の理由はよもやま話が伝えるように、行方不明の子返しとされます。
この地蔵尊の創立と考えられる享保11年(1726)には、村山貯水池に沈んだ三光院の地蔵尊、江戸街道・奈良橋庚申塚の庚申塔が造立されています。一峰超えた旧村部(三光院)、狭山丘陵の根通り(伝兵衛)、武蔵野の原野の中の一筋の道(庚申塔)と東大和市を代表する地域にまつられています。
当時は、開発ブームでした。2年前の1724年には、現在の東大和市駅周辺を蔵敷村の村人達が武蔵野の原野を新田開発し、高木村の村人達が 更に南に離れた国分寺市内に国分寺新田を開発しています。過酷な状況で子供達は育ちにくかったと伝えられます。活気に溢れながらも、願う何事かがあったことが推察されます。
次の宝暦年代は天災が激しく、飢饉が続いた年でした。その背景が関係あるかも知れません。交通頻繁な地の小さな地蔵尊、今でも花や飲み物が供え続けられて居ます。
「志木街道が狭山と清水の境で大きくカーブする一角にお地蔵さんが立っています。身の丈六十センチメートルの可愛いいお地蔵さんですが、伝兵衛地蔵と呼ばれています。建立はわからないのですが、台座に享保・宝暦の年号が刻まれており古さを物語っています。
昔、清水村に代々伝兵衛を名乗る旧家がありました。分家のせがれが行方不明になり八方手をつくして尋ねましたが見つかりません。心配した本家の伝兵衛さんはお地蔵さんを建てて祈願したところ、まもなく無事に分家のせがれは帰ってきました。喜んだ伝兵衛さんはお地蔵さんを自分の屋敷に移して供養をしました。
村の人も無事に子供を返してくれたお地蔵さんを伝兵衛地蔵と呼んでおまいりするようになりました。(中略)今は土地の人でも伝兵衛地蔵の名を知る人はいなくなりました。誰いうとなく子育て地蔵と呼んでお参りしています。幼な児の健康を願って、ヨダレ掛けや帽子が数多く重なって、いつの世も変らぬ親心をしめしています。近頃は亡くなった水子供養におまいりする人もあると聞き、お花や、お供物が絶えることなく供えられています。(中略)地元の人達にブロックで囲んでもらい、魔のカーブの守り神となっています。」
赤いよだれかけが、いつの間にか新しく取り替えられています。ご近所の方々の気遣いです。
台座は摩耗していますが、享保11年(1726)、宝暦4年(1754)、宝暦13年(1763)、明和(1764~1771)、寛政13年(1801)の年号が彫られています。造立の理由はよもやま話が伝えるように、行方不明の子返しとされます。
この地蔵尊の創立と考えられる享保11年(1726)には、村山貯水池に沈んだ三光院の地蔵尊、江戸街道・奈良橋庚申塚の庚申塔が造立されています。一峰超えた旧村部(三光院)、狭山丘陵の根通り(伝兵衛)、武蔵野の原野の中の一筋の道(庚申塔)と東大和市を代表する地域にまつられています。
当時は、開発ブームでした。2年前の1724年には、現在の東大和市駅周辺を蔵敷村の村人達が武蔵野の原野を新田開発し、高木村の村人達が 更に南に離れた国分寺市内に国分寺新田を開発しています。過酷な状況で子供達は育ちにくかったと伝えられます。活気に溢れながらも、願う何事かがあったことが推察されます。
次の宝暦年代は天災が激しく、飢饉が続いた年でした。その背景が関係あるかも知れません。交通頻繁な地の小さな地蔵尊、今でも花や飲み物が供え続けられて居ます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“清水の伝兵衛地蔵さん,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1743.