鹿島台遺跡 市史跡

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タイトル (Title)

鹿島台遺跡 市史跡

詳細 (Description)

 芋窪、豊鹿島神社の北側、鹿島台一帯の地下に眠る、とびっきりの遺跡です。
 まだ、発掘していない地域が広く、今後の調査によっては、
 狭山丘陵の縄文時代について、いろいろな発見が期待されます。
 見つかった土器や石器はこの地域の縄文時代の特色を語るので
 「遺跡」は市の史跡に、「土器や石器」は市の重宝に指定されています。
 (画像:第1地区で発掘された住居の跡 (『鹿島台遺跡 調査報告書』p14))
 縄文時代中期(約5000年前)の住居跡とされます。
 回りに溝が切られて、太い柱の跡と中央に炉(いろり)が設けられています。
 火を燃やして、暖まったり、この上にもう一つ土器を置いて煮炊きをしたりしたようです。
(画像:上の住居に、炉(いろり)として埋められていた土器 勝坂式)
所在地 東大和市芋窪一丁目一九九八番地ほか
指 定 昭和五十八年三月一日
説 明 市内でも屈指の縄文時代中期の集落遺跡である。保存状態もよく、市の歴史資料として貴重である。
(画像:現地周辺 豊鹿島神社の北側の道ばたに立つ説明板。左側が第一地区(子ども広場)、右側が道路を挟んで第二地区です。)
 説明板があって、次のように記されています。
(画像:鹿島台遺跡説明板 東大和市教育委員会)
東大和市史跡
鹿島台遺跡
所在 東大和市芋窪一丁目一九九八番地ほか
指定 昭和五十八年三月一日
説明 
 この遺跡は、古くからその存在が知られ、昭和36(1962)年の表面採集調査では、
 縄文時代前・中・後期(約6.000~3.000年前)の土器の破片や石器類が発見されている。
 その後、昭和55(1980)年3月の発掘調査では、縄文時代前期末(約5.500年前)
 の集積遺構や、縄文時代中期(約5.000年前)の住居跡が見つかった。
 このときの住居跡はここから西の奥まった所にあり、土器を埋め込んだ炉跡が発見された。
 奈良橋の八幡谷戸遺跡とともに、縄文時代のムラの跡と推定される重要な遺跡である。
  
                  東大和市教育委員会
遺跡の位置と鹿島台
・遺跡は狭山丘陵の南麓に位置して
・中谷ッ、東谷ッに挟まれる中央、鹿島台に営まれました。
・両方の谷ッはそれぞれに湧き水の水源を持ち
・台地から谷ッにかけて植物が生い茂り
・採集、狩猟の生活にはもってこいの地です。
・住居跡は一定の期間の定住を示すようです。
(画像:鹿島台の周辺 台地と谷ッが交互に入り組み、先史時代人の生活、活動の場所でした。)
 鹿島台遺跡の範囲はおおむね・・・・線の範囲と考えられています。
 今回発掘調査が行われたのはその一部です。

鹿島台遺跡の周辺では、従前から、縄文土器や石器が見つけられて、遺跡のあることが想定されていました。そこに、住宅地化が進んできたので、昭和55年(1980)、事前調査が行われることになりました。調査は下図の通り、4区画に分けて行われました。
(画像:出典『鹿島台遺跡 調査報告書』p5)
調査区別の出土品
1地区
・1ー1地点、縄文時代中期住居址
(画像:縄文時代中期竪穴住居(『鹿島台遺跡 調査報告書』p15))
 直径 約6メートル 六角形に近い円形(林などの関係から全体は未確認)
 柱の穴 5ヵ所、もしかしたら6ヵ所 
 壁に沿って周溝(しゅうこう 雨水などを防ぐ)
 中央に炉(いろり)
・1ー2地点 石鏃(せきぞく)
(画像:『東大和市史』資料編3p139)
 石の鏃(やじり)です。矢の先に付けて狩りに使いました。
 この地点での発見数はこの1点だけでした。
・1-1地点から発掘された石器
(画像:調査区1から発見された石器)
 このような打製石斧(だせいせきふ)が65点発見されました。
 斧(おの)のように木を削ったり、穴を開けたり、植物の根を掘ったり、調理に使われました。
 これに比べて狩りをする鏃(やじり)は1点で、この住居跡の特色を告げます。
 ◎狩猟が少なくなり、石斧で掘り出し、調理する植物性食物が多くなったことを想定させます。
(画像:第1地区、第2地区の状況)
 縄文時代にはこの道は無く、第1地区、第2地区はつながっていました。
2地区
 次の石器が発見されました。
(画像:2地区から発掘された石器)
 1半分に折れた石斧
 2自然石か?
 3片方に刃が付けられた石器
  数字3の書かれた上の部分を握って、ナイフのように使われたのかも?

3地区
・3ー3地点、集積遺構
(画像:3地区の集積遺構 『鹿島台遺跡 調査報告書』p8)
・実に興味ある遺構です。
・焼け焦げた石が集まって転がっています。
・旧石器時代のバーベキュー跡を思わせます。
・ところが、この地から発見された土器と石器が縄文時代の早い時期のものであることがわかりました。
3地区 縄文土器と石器
(画像:『鹿島台遺跡 調査報告書』p9)
 調査報告書は縄文時代前期末~中期前半(6000年~5500年前)としています。
 縄文時代の初めから中期にかけて、このような調理をして生活していたことがわかります。
 旧石器時代のバーベキュー跡は空堀川のほとりに残されています。
4地区
・4-3地点
 打製石斧
(画像:4地区から発掘された打製石斧)
・4ー5地点
 土器(中期初頭)と石皿(いしざら)
(画像:土器と石皿『鹿島台遺跡 調査報告書』p10)
 土器の形式は五領ヶ台式(ごりょうがだいしき 縄文時代中期初頭)とされます。調査報告書p10)
鹿島台遺跡のもつ重要性
 以上の発掘経過と発掘の成果から、遺跡調査会は次のように記しています。
 「・・・この台地で人々の生活が営まれたのは,縄文時代前期未葉(約6000年前)
から,中期中葉(約5000年前)までの期間であることがわかった。ただし,今回の調査は
あくまでも部分的なものであり,昭和36年の表面採集調査で縄文時代後期の遺物が発見さ
れていることから考えると,未調査部分にこの時期に相当する遺構や遺物が存在すること
も十分に考えられる。」(『鹿島台遺跡 調査報告書』p10)
 広大な狭山丘陵には多くの遺跡があり、縄文時代中期には縄文銀座と云われるほどたくさんの縄文時代の人々の生活跡が残されています。
 東大和市域では縄文時代の草創期と晩期の遺跡が発見されていませんが、鹿島台遺跡は、縄文時代全期を通じての生活の状況をたどれる可能性がありそうです。
 
 さらに、調査区1で発掘した住居跡から発見された石器は、
・石鏃(せきぞく 矢じり)の数が少なく
・多くは石斧(せきふ)でした。
 これらから、「狩り」よりも植物の「根堀り」が主要な生活要素になってきていることを伺わせ、
◎単なる狩猟・採集社会ではない、ある期間の定住へと時代の変化を感じ取らせます。 
成果を市の重宝に指定
 多くの可能性を秘めた鹿島台遺跡は
・遺跡全体が市の史跡
・第一地区の住居跡から出土した土器や石器が一括して「重宝」に指定しています。
・重宝についてはページを改めます。
(画像:鹿島台遺跡2地区から4地区にかけての武蔵野台地)
 この画像の右側からは富士山がくっきり見えます。
 先史時代の人々は、富士山の見えるところを生活の場に選んだようです。

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Citation

“鹿島台遺跡 市史跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1768.