大まかな歴史の流れ 明治2
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大まかな歴史の流れ 明治2
詳細 (Description)
村議会、自由民権、村山貯水池
1村議会の成立から連合戸長制へ
(1)町村会規則 明治12年(1879)6月13日、神奈川県は「町村会規則」を布達しました。村に「村会」を置くことを定めたもので、国に先行すること1年前でした。
・議員の数は町村内の戸数によって定められ、100戸未満は10人以下、100戸から200戸未満は15人、それ以上は200戸ふえるごとに5人ずつの増員とされました。
・選挙権・被選挙権はその町村内に本籍と住居を定める満20歳以上の男子で、村内に土地を持つ者とされました。
議員が選ばれた 明治12年(1879)7月5日、蔵敷村で最初の村会議員選挙が行われました。16人が候補者となり、7人が確定しました。東大和市域では明治12年(1879)から13年(1880)にかけて、各村で村会議員の選挙が行われ、村会が設立しました。残念ですが、ほとんど資料が残されていません。
予算は県に納める税が40%を超える 高木村の明治12年(1879)議案第1号は村の予算でした。総額215円で、小学校費が32%、県に納める地租割税が25.5%、戸数割り15%です。県に納める税が40%を超えていました。
村の疲弊、自由民権運動の高まり 明治14年(1881)以来、政府は極端なデフレ政策をとりました。このため、物価の急激な下落、深刻な不況におおわれ、村は疲弊し、滞納が増加、地方財政は危機的状況になりました。加えて、自由民権運動の高まりにより政治的な動揺も起こりました。
(2)官選戸長による統制
これらの動きを背景として、政府は明治17年5月7日、「区町村会法」を全面的に改正し、町村制度を大幅に改めました。
・戸長は官選となり、町村会は議決事項が限定された。
・議案の発案権は戸長に限定された。
・議員の選挙権、被選挙権は地租納税者に限定された。
等を行いました。神奈川県でも、明治17年(1884)6月18日、「戸長推挙規則」を制定し、各村ごとに選出されていた戸長を、500戸を基準に1人とすることで、複数の町村を連合させる方針をとりました。主な目的は、地方税・区市町村費の削減、事務渋滞の解消でした。
連合戸長制 東大和市域の村々でも、明治17年(1884)7月1日、村々が集まって共同処理をすることにして、「連合戸長制度」を取り入れました。
東大和市域では、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の村々で「高木外五ケ村連合」を構成しました。「連合村会」が形成されました。高木村に連合戸長役場が設けられました。
2自由民権運動
明治7年(1874)1月、板垣退助や後藤象二郎などによって「民撰議院設立建白書」が提出されて以来、明治14年(1881)10月12日、国会開設を約束する詔が出されるまで、自由と権利を主張して、さまざまな運動を展開したのが自由民権運動でした。
多摩には有名な五日市憲法草案(明治14年・1881)があります。併せて、特記することの一つが東大和市域の自由民権運動です。それは、現在のところ、多摩で最初の自由民権運動の動きを起こしたのが民権学習結社「衆楽会」(明治11年・1878)とされることにあります。
(1)衆楽会 明治11年(1878)1月17日、貯水池に沈んだ石川にあった石沢山愛染院蓮花寺で、「衆楽会」という結社が発足しました。自由民権運動は多くが「学習会」「読書会」などから出発し、政治結社をつくって、演説会などを通して運動を行っています。「衆楽会」はまさにその狭山丘陵版学習結社でした。
開講式記録には「郷党の学士自治の道を知らんと欲し、相与に之を詢り衆楽会を設為し・・・各自集会して切磋琢磨して、或いは文を講し、或いは書を評し或いは余時に詩歌を詠す。」と宣言しています。
「衆楽会」に集った人 会長・江口栄雲(昇隆学校権訓導)、幹事・内野徳隆(=杢左衛門・蔵敷村名主・自由民権家)、幹事・石井権左衛門、区長・川鍋正義 会員・数名、訓導・内野吉治と昇隆学校生徒
開講式の宣言 「明治十一年一月十七日(木曜日)、郷党ノ学士自治ノ道ヲ知ラント欲シ、相与こ之レヲ訽リ衆楽会ヲ設為シ、連月一回若シクニ回ヲ期シ、各自集会シテ切瑳琢磨シテ、或ハ文ヲ講シ、或ハ書ヲ評シ、或ハ余時ニ詩歌ヲ詠ス、蓋シ此会ノ号アル所以ナリ」
として月1~2回集まり、「切瑳琢磨」して、「文を講じ」、「書を評し」、「余時には詩歌を詠す」ことを明らかにしています。
会長江口栄雲の祝文 謹テ御誓文ヲ拝諦スルニ、広ク会儀ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ、・・・旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク可シ、知識ヲ世界ニ求メ・・・有志ノ輩国恩ヲ謝セント欲シ、此ノ講会ヲ開キ、広ク愚夫愚婦ヲ誘導シ、以テ倫理ヲ明ニシ旧俗ノ悪シキ去リ、日ニ新タ、日々ニ新ニシテ、又日ニ新タニセズンバアルベカラズ
と祝文を読みました。
その後の活動 資料がなく、誠に残念ですが紹介できません。衆楽会については別に記します。
(2)新聞購読社
衆楽会の発足もあり、各地での自由民権運動の高まりに刺激されて、村人達の間に、政治をはじめ時事の動きを敏感に捉えようとする動きが生れました。ニュース源の新聞は高価でした。そこで始まったのが共同で購入、回覧読みをすることです。
蔵敷村新聞購読社 明治14年(1881)1月1日、内野杢左衛門を中心として8名による「蔵敷村新聞購読社」が結成されました。メンバーは次の通りで→の順番に廻りました。
内野杢左衛門→内野長吉→内野吉次郎→鈴木泰蔵→鈴木重蔵→小島関太郎→小島吉次郎→石原権右衛門。鈴木重蔵が会計係を担当しました。
仕組みは、毎月一人15銭ずつ出し合って、二日二夜で読んで次の会員に回しました。新聞は郵便で取り寄せました。読む新聞は
「曙新聞」、「読売新聞」「驥尾団子(きびだんご)」「人情雑誌」、「面白奇聞」、「朝野(ちょうや)新聞」、「東京横浜毎日新聞」などでした。
◎「朝野新聞」「東京横浜毎日新聞」は民権派新聞として、この面の情報提供源として読まれたようです。演説会に講師の派遣をして居ます。
高木村新聞購読・回覧グループ 高木村の新聞購読・回覧グループは、一足早く、明治13年(1880)に行われていました。「宮鍋庄兵衛家、清五郎家、尾﨑宇兵衛家の三軒で新聞を共同に取り、一軒で読み終わると子守女が届けに行った」と大和町史は伝えます。(大和町史p369)
(3)千葉卓三郎の来村
明治14年(1881)5月から9月頃まで、奈良橋村に千葉卓三郎(仙台藩士)が来村し、鎌田家に滞在しました。深沢村(現・あきる野市五日市)の観能学校の教師であり、「五日市憲法」の草案つくりを指導した人です。深沢権八宛に奈良橋村から次の日付の3通(①明治14年5月15日、②7月13日、③9月15日・推定)の書簡葉書を出しています。
奈良橋村での千葉卓三郎 在村中には、東大和市周辺の自由民権運動の理論的指導をしたことが考えられます。9月25日開催された狭山自由懇親会への深沢権八の出席依頼、当日の演説草稿などからその係わりが推測できます。また、千葉が作成した演説草稿と推測される文書が東大和市史資料編(10p67)に紹介されています。
「自由ノ理明カナラザレバ、民権起ラズ、民権起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ、自治ノ気象振ハザレバ知識焉(いずく)ンゾ進ムヲ得ンヤ、・・・速ニ国会をヲ開キ、立法ノ大権ヲ人民ノ手ニ掌握セシメント・・・」と国会開設への強い意思が示されています。
千葉卓三郎は10月はじめには五日市に戻っています。しかし、その影響は強かったようで、明治14年(1881)11月21日、奈良橋村雲性寺で開かれた奈良橋自由懇親会には、村山郷十六ヵ村、入間郡有志が参集し、運動が狭山丘陵全体に及んでいます。
奈良橋 鎌田家墓碑に名が刻まれる 鎌田家の墓地に「千葉先生 仙台の人」と刻まれた墓碑があります。千葉卓三郎が晩年病に倒れ、入院中その枕元へ足繁く通い、明治16年(1883)11月に亡くなったとき、 最期を見届けたのが鎌田喜十郎(鎌田喜三(訥郎)の弟)でした。当時、喜十郎は湯島の法律学舎に寄宿していたこともあって、千葉の入院していた東京大学付属病院へ見舞ったのでしょう。
喜十郎が明治22年(1889)4月に亡くなる折、「自分の墓に千葉先生と刻んで欲しい」と遺言したとされます。千葉と喜十郎は深い師弟関係にあったことを無言で伝えます。
(4)政談演説会
政談演説会 自由民権運動の普及に大きな役割を果たしたのが政談演説会でした。明治12年(1879)、神奈川県会の開設に動きを合わせたように、各地で政談演説会が開かれます。「人民自治の精神」「自主の権利」をテーマとする民権思想の普及運動で、同時に運動家相互の連携を深めました。
明治13年の末から14年になると、府中市や調布市で相次いで開かれ、東大和市域の村々の人が参加しました。そして、東大和市域内でも3回開かれました。
芋窪村「学術演説会」 明治14年(1881)5月6日、昇隆小学校(現在の豊鹿島神社社務所のところにあった)を会場にして「学術演説会」が開かれました。発起人は「渡辺・内野・河鍋」の3人(自治改進党メンバー)で、弁士に、民権派ジャーナリストとして人気の高かった東京横浜毎日新聞の「吉岡育造」「竹内正志」が招かれました。
その後に「有志者討論会又ハ座上演説等」が催され「頗ル盛会」(東大和市史資料編10p62)とされます。但し、明治13年(1880)年4月5日、明治政府が制定した集会条例の適用がされ、八王子警察署長、箱根分署長の視察がありました。東大和市史資料編では「警察のチェックを受け、「集会条例範囲内」と認められた上での開催であったことがわかる」としています(10p62)。
狭山村「自由懇親会」 明治14年(1881)9月25日、狭山「円乗院」で「自由懇親会」が開催されました。集会条例を考慮してか「自由懇親会」と名称を変えています。発起人は宮鍋庄兵衛(高木村)・鎌田喜三(奈良橋村)でした。五日市憲法草案に携わった千葉卓三郎も関わっています。弁士は民権派ジャーナリストの赤羽万二郎でした。当日は「生憎、濛々たる宿雨の尚ほ未だ晴れず、道途に泥濘、殊に甚しかりしにも関はらず、参集したる有志者は殆ど二百名なりき、」と少しオーバーに東京横浜毎日新聞は伝えます。
内野杢左衛門の記録によれば、71名の参加で、演説会が終わった後、その夜の宿をつとめた宮鍋家で語り合い、深更に帰宅したとあります。
奈良橋村「奈良橋懇親会」 明治14年(1881)11月21日、奈良橋村で懇親会が行われました。場所は奈良橋学校(雲性寺境内)でした。この会に関する資料がなく、明治14年11月24日の東京横浜毎日新聞の記事が唯一です。
「去る廿一日神奈川県下北多摩郡奈良橋村奈良橋学校に於て開きたる懇親会は、同郡村山郷と称ふる十六ケ村有志者の首唱に出たる者にして、弊社の島田も参会したり、此地は境を埼玉県下入間郡に接するを以て、同県下の有志者中より来会せられたる人あり、・・・」として、運動が狭山丘陵全体に及んでいることがわかります。
3村山貯水池の建設計画
東大和市にとって市域全体に大きな影響を及ぼした出来事の一つが村山貯水池の建設です。明治末からその動きが始まります。
水質汚濁 明治に入り、江戸が東京になり、西洋文明に接して問題になったのが「飲み水」でした。武蔵野の原野に掘られた素掘りの玉川上水や神田上水などに依存し、浄化施設は不十分でした。市中の井戸も水質検査が行われ、明治10年代には不適の結果が示されます。上水改良の空気が叫ばれてきました。
コレラの流行 明治19年(1886)コレラが流行しました。15区、郡部を併せると患者12,171人、死者9,879人、一日に300人以上の死亡が伝えられます。その最中、玉川上水の水源付近でコレラ患者の汚物を多摩川に流したとの新聞報道がなされました。開渠の玉川上水では、汚物が入りやすく、また、浄水装置もありませんでした。
水道改良工事 これらの解消のため、明治21年(1888)、水道改良工事が始まりました。淀橋への浄水場、本郷、芝への給水場、濾過と配水装置の設置です。この工事は事業費予算化の問題もあり、遅れに遅れて、明治32年(1899)に一部が通水する状況でした。
貯水池建設計画 明治38年(1905)、さらに水不足問題が生じ、人口増への対応もあり、抜本的な解決が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として工学博士中島鋭治氏を中心に貯水池建設が提案されました。
村山貯水池の建設決定 明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
東京市区改正委員会は明治45年(1912 )4月5日と5月5日に集中審議を行いました。審議は伯仲し、工事の難易、工費などから、結果として②狭山丘陵案が採用されました。
・大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
・大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる7カ年の継続事業が決定されました。
・大正3年(1914 )1月10日には、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。
1村議会の成立から連合戸長制へ
(1)町村会規則 明治12年(1879)6月13日、神奈川県は「町村会規則」を布達しました。村に「村会」を置くことを定めたもので、国に先行すること1年前でした。
・議員の数は町村内の戸数によって定められ、100戸未満は10人以下、100戸から200戸未満は15人、それ以上は200戸ふえるごとに5人ずつの増員とされました。
・選挙権・被選挙権はその町村内に本籍と住居を定める満20歳以上の男子で、村内に土地を持つ者とされました。
議員が選ばれた 明治12年(1879)7月5日、蔵敷村で最初の村会議員選挙が行われました。16人が候補者となり、7人が確定しました。東大和市域では明治12年(1879)から13年(1880)にかけて、各村で村会議員の選挙が行われ、村会が設立しました。残念ですが、ほとんど資料が残されていません。
予算は県に納める税が40%を超える 高木村の明治12年(1879)議案第1号は村の予算でした。総額215円で、小学校費が32%、県に納める地租割税が25.5%、戸数割り15%です。県に納める税が40%を超えていました。
村の疲弊、自由民権運動の高まり 明治14年(1881)以来、政府は極端なデフレ政策をとりました。このため、物価の急激な下落、深刻な不況におおわれ、村は疲弊し、滞納が増加、地方財政は危機的状況になりました。加えて、自由民権運動の高まりにより政治的な動揺も起こりました。
(2)官選戸長による統制
これらの動きを背景として、政府は明治17年5月7日、「区町村会法」を全面的に改正し、町村制度を大幅に改めました。
・戸長は官選となり、町村会は議決事項が限定された。
・議案の発案権は戸長に限定された。
・議員の選挙権、被選挙権は地租納税者に限定された。
等を行いました。神奈川県でも、明治17年(1884)6月18日、「戸長推挙規則」を制定し、各村ごとに選出されていた戸長を、500戸を基準に1人とすることで、複数の町村を連合させる方針をとりました。主な目的は、地方税・区市町村費の削減、事務渋滞の解消でした。
連合戸長制 東大和市域の村々でも、明治17年(1884)7月1日、村々が集まって共同処理をすることにして、「連合戸長制度」を取り入れました。
東大和市域では、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の村々で「高木外五ケ村連合」を構成しました。「連合村会」が形成されました。高木村に連合戸長役場が設けられました。
2自由民権運動
明治7年(1874)1月、板垣退助や後藤象二郎などによって「民撰議院設立建白書」が提出されて以来、明治14年(1881)10月12日、国会開設を約束する詔が出されるまで、自由と権利を主張して、さまざまな運動を展開したのが自由民権運動でした。
多摩には有名な五日市憲法草案(明治14年・1881)があります。併せて、特記することの一つが東大和市域の自由民権運動です。それは、現在のところ、多摩で最初の自由民権運動の動きを起こしたのが民権学習結社「衆楽会」(明治11年・1878)とされることにあります。
(1)衆楽会 明治11年(1878)1月17日、貯水池に沈んだ石川にあった石沢山愛染院蓮花寺で、「衆楽会」という結社が発足しました。自由民権運動は多くが「学習会」「読書会」などから出発し、政治結社をつくって、演説会などを通して運動を行っています。「衆楽会」はまさにその狭山丘陵版学習結社でした。
開講式記録には「郷党の学士自治の道を知らんと欲し、相与に之を詢り衆楽会を設為し・・・各自集会して切磋琢磨して、或いは文を講し、或いは書を評し或いは余時に詩歌を詠す。」と宣言しています。
「衆楽会」に集った人 会長・江口栄雲(昇隆学校権訓導)、幹事・内野徳隆(=杢左衛門・蔵敷村名主・自由民権家)、幹事・石井権左衛門、区長・川鍋正義 会員・数名、訓導・内野吉治と昇隆学校生徒
開講式の宣言 「明治十一年一月十七日(木曜日)、郷党ノ学士自治ノ道ヲ知ラント欲シ、相与こ之レヲ訽リ衆楽会ヲ設為シ、連月一回若シクニ回ヲ期シ、各自集会シテ切瑳琢磨シテ、或ハ文ヲ講シ、或ハ書ヲ評シ、或ハ余時ニ詩歌ヲ詠ス、蓋シ此会ノ号アル所以ナリ」
として月1~2回集まり、「切瑳琢磨」して、「文を講じ」、「書を評し」、「余時には詩歌を詠す」ことを明らかにしています。
会長江口栄雲の祝文 謹テ御誓文ヲ拝諦スルニ、広ク会儀ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ、・・・旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク可シ、知識ヲ世界ニ求メ・・・有志ノ輩国恩ヲ謝セント欲シ、此ノ講会ヲ開キ、広ク愚夫愚婦ヲ誘導シ、以テ倫理ヲ明ニシ旧俗ノ悪シキ去リ、日ニ新タ、日々ニ新ニシテ、又日ニ新タニセズンバアルベカラズ
と祝文を読みました。
その後の活動 資料がなく、誠に残念ですが紹介できません。衆楽会については別に記します。
(2)新聞購読社
衆楽会の発足もあり、各地での自由民権運動の高まりに刺激されて、村人達の間に、政治をはじめ時事の動きを敏感に捉えようとする動きが生れました。ニュース源の新聞は高価でした。そこで始まったのが共同で購入、回覧読みをすることです。
蔵敷村新聞購読社 明治14年(1881)1月1日、内野杢左衛門を中心として8名による「蔵敷村新聞購読社」が結成されました。メンバーは次の通りで→の順番に廻りました。
内野杢左衛門→内野長吉→内野吉次郎→鈴木泰蔵→鈴木重蔵→小島関太郎→小島吉次郎→石原権右衛門。鈴木重蔵が会計係を担当しました。
仕組みは、毎月一人15銭ずつ出し合って、二日二夜で読んで次の会員に回しました。新聞は郵便で取り寄せました。読む新聞は
「曙新聞」、「読売新聞」「驥尾団子(きびだんご)」「人情雑誌」、「面白奇聞」、「朝野(ちょうや)新聞」、「東京横浜毎日新聞」などでした。
◎「朝野新聞」「東京横浜毎日新聞」は民権派新聞として、この面の情報提供源として読まれたようです。演説会に講師の派遣をして居ます。
高木村新聞購読・回覧グループ 高木村の新聞購読・回覧グループは、一足早く、明治13年(1880)に行われていました。「宮鍋庄兵衛家、清五郎家、尾﨑宇兵衛家の三軒で新聞を共同に取り、一軒で読み終わると子守女が届けに行った」と大和町史は伝えます。(大和町史p369)
(3)千葉卓三郎の来村
明治14年(1881)5月から9月頃まで、奈良橋村に千葉卓三郎(仙台藩士)が来村し、鎌田家に滞在しました。深沢村(現・あきる野市五日市)の観能学校の教師であり、「五日市憲法」の草案つくりを指導した人です。深沢権八宛に奈良橋村から次の日付の3通(①明治14年5月15日、②7月13日、③9月15日・推定)の書簡葉書を出しています。
奈良橋村での千葉卓三郎 在村中には、東大和市周辺の自由民権運動の理論的指導をしたことが考えられます。9月25日開催された狭山自由懇親会への深沢権八の出席依頼、当日の演説草稿などからその係わりが推測できます。また、千葉が作成した演説草稿と推測される文書が東大和市史資料編(10p67)に紹介されています。
「自由ノ理明カナラザレバ、民権起ラズ、民権起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ、自治ノ気象振ハザレバ知識焉(いずく)ンゾ進ムヲ得ンヤ、・・・速ニ国会をヲ開キ、立法ノ大権ヲ人民ノ手ニ掌握セシメント・・・」と国会開設への強い意思が示されています。
千葉卓三郎は10月はじめには五日市に戻っています。しかし、その影響は強かったようで、明治14年(1881)11月21日、奈良橋村雲性寺で開かれた奈良橋自由懇親会には、村山郷十六ヵ村、入間郡有志が参集し、運動が狭山丘陵全体に及んでいます。
奈良橋 鎌田家墓碑に名が刻まれる 鎌田家の墓地に「千葉先生 仙台の人」と刻まれた墓碑があります。千葉卓三郎が晩年病に倒れ、入院中その枕元へ足繁く通い、明治16年(1883)11月に亡くなったとき、 最期を見届けたのが鎌田喜十郎(鎌田喜三(訥郎)の弟)でした。当時、喜十郎は湯島の法律学舎に寄宿していたこともあって、千葉の入院していた東京大学付属病院へ見舞ったのでしょう。
喜十郎が明治22年(1889)4月に亡くなる折、「自分の墓に千葉先生と刻んで欲しい」と遺言したとされます。千葉と喜十郎は深い師弟関係にあったことを無言で伝えます。
(4)政談演説会
政談演説会 自由民権運動の普及に大きな役割を果たしたのが政談演説会でした。明治12年(1879)、神奈川県会の開設に動きを合わせたように、各地で政談演説会が開かれます。「人民自治の精神」「自主の権利」をテーマとする民権思想の普及運動で、同時に運動家相互の連携を深めました。
明治13年の末から14年になると、府中市や調布市で相次いで開かれ、東大和市域の村々の人が参加しました。そして、東大和市域内でも3回開かれました。
芋窪村「学術演説会」 明治14年(1881)5月6日、昇隆小学校(現在の豊鹿島神社社務所のところにあった)を会場にして「学術演説会」が開かれました。発起人は「渡辺・内野・河鍋」の3人(自治改進党メンバー)で、弁士に、民権派ジャーナリストとして人気の高かった東京横浜毎日新聞の「吉岡育造」「竹内正志」が招かれました。
その後に「有志者討論会又ハ座上演説等」が催され「頗ル盛会」(東大和市史資料編10p62)とされます。但し、明治13年(1880)年4月5日、明治政府が制定した集会条例の適用がされ、八王子警察署長、箱根分署長の視察がありました。東大和市史資料編では「警察のチェックを受け、「集会条例範囲内」と認められた上での開催であったことがわかる」としています(10p62)。
狭山村「自由懇親会」 明治14年(1881)9月25日、狭山「円乗院」で「自由懇親会」が開催されました。集会条例を考慮してか「自由懇親会」と名称を変えています。発起人は宮鍋庄兵衛(高木村)・鎌田喜三(奈良橋村)でした。五日市憲法草案に携わった千葉卓三郎も関わっています。弁士は民権派ジャーナリストの赤羽万二郎でした。当日は「生憎、濛々たる宿雨の尚ほ未だ晴れず、道途に泥濘、殊に甚しかりしにも関はらず、参集したる有志者は殆ど二百名なりき、」と少しオーバーに東京横浜毎日新聞は伝えます。
内野杢左衛門の記録によれば、71名の参加で、演説会が終わった後、その夜の宿をつとめた宮鍋家で語り合い、深更に帰宅したとあります。
奈良橋村「奈良橋懇親会」 明治14年(1881)11月21日、奈良橋村で懇親会が行われました。場所は奈良橋学校(雲性寺境内)でした。この会に関する資料がなく、明治14年11月24日の東京横浜毎日新聞の記事が唯一です。
「去る廿一日神奈川県下北多摩郡奈良橋村奈良橋学校に於て開きたる懇親会は、同郡村山郷と称ふる十六ケ村有志者の首唱に出たる者にして、弊社の島田も参会したり、此地は境を埼玉県下入間郡に接するを以て、同県下の有志者中より来会せられたる人あり、・・・」として、運動が狭山丘陵全体に及んでいることがわかります。
3村山貯水池の建設計画
東大和市にとって市域全体に大きな影響を及ぼした出来事の一つが村山貯水池の建設です。明治末からその動きが始まります。
水質汚濁 明治に入り、江戸が東京になり、西洋文明に接して問題になったのが「飲み水」でした。武蔵野の原野に掘られた素掘りの玉川上水や神田上水などに依存し、浄化施設は不十分でした。市中の井戸も水質検査が行われ、明治10年代には不適の結果が示されます。上水改良の空気が叫ばれてきました。
コレラの流行 明治19年(1886)コレラが流行しました。15区、郡部を併せると患者12,171人、死者9,879人、一日に300人以上の死亡が伝えられます。その最中、玉川上水の水源付近でコレラ患者の汚物を多摩川に流したとの新聞報道がなされました。開渠の玉川上水では、汚物が入りやすく、また、浄水装置もありませんでした。
水道改良工事 これらの解消のため、明治21年(1888)、水道改良工事が始まりました。淀橋への浄水場、本郷、芝への給水場、濾過と配水装置の設置です。この工事は事業費予算化の問題もあり、遅れに遅れて、明治32年(1899)に一部が通水する状況でした。
貯水池建設計画 明治38年(1905)、さらに水不足問題が生じ、人口増への対応もあり、抜本的な解決が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として工学博士中島鋭治氏を中心に貯水池建設が提案されました。
村山貯水池の建設決定 明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
東京市区改正委員会は明治45年(1912 )4月5日と5月5日に集中審議を行いました。審議は伯仲し、工事の難易、工費などから、結果として②狭山丘陵案が採用されました。
・大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
・大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる7カ年の継続事業が決定されました。
・大正3年(1914 )1月10日には、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。
Item Relations
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Citation
“大まかな歴史の流れ 明治2,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1770.