玉川上水への通船1 江戸時代
タイトル (Title)
玉川上水への通船1 江戸時代
詳細 (Description)
明治の3年(1870)から5年(1872)までのわずかな期間でしたが、玉川上水に船を浮かべ物資の運搬が行われました。玉川上水は東大和市のすぐ近くにありながら、直接には接していません。しかし、
・野火止用水の取り入れ口に近く
・村山貯水池・多摩湖の建設と関係があり
・通船には蔵敷村の名主が参加している
玉川上水は、江戸市中への上水給水を目的とし、曠野であった多摩の村々に分水することによって、新田開発に大きく寄与しました。しかし、幕末になって、水上交通路として思わぬ方向へ発展します。
江戸時代中期以降、江戸は巨大都市として伸展し、市中には、多くの物資の集散が求められます。多摩地方でも、農産物、薪炭、木材、織物などが江戸市中へ送られるようになりました。そのルートは、甲州街道、青梅街道、五日市街道などで、いずれも人馬が輸送の中心でした。
多摩川の水利も対象になりましたが、河口からの迂回路が必要で、陸上輸送が中心となりました。そこで、浮かび上がったのが玉川上水の水運利用です。
1 江戸時代の通船計画
(1)商人・名主の計画
①元文3年(1738)
浅草の町人和泉屋(泉屋)平八・五嶋屋次郎右衛門・熊沢屋市郎兵衛らが、「御上水より拾五間程南之方堀候」と、玉川上水に沿って新しい堀を掘って運送用の舟を運行する計画をたてています。野中新田、貫井村、下小金井村、梶野新田の四か村が計画に同意した文書が残されています。現・小平、小金井市周辺の村々で、貫井村周辺から玉川上水の分水を利用するものでした。
元文4年(1739)12月には、福生村から江戸芝までの間に通船堀を掘り、直接多摩川の水を引き入れて、通船する計画も出されたようです。
元文5年(1740)8月まで実施に向けての交渉が続いたようですが、「狭山丘陵南麓の村々の反対によって」(小平の歴史を拓く上p34)立ち消えとなりました。
②明和7年(1770)6月
小川村の東はん(石+番=名主・孫次郎の父)によって出願されています。小川家に文書が残され当時の様子がよくわかります。計画された事業内容は
一 船数二〇艘 巾六・七尺(2m前後)
長六・七間(11~12m)
一 一艘ニ付米五〇俵(一七石五斗)積――馬二五駄分
一 船通行は月六回(五日で一往復)
一 航行区間は小川村――四ツ谷大木戸・内藤宿天龍寺近所
本格的で、玉川上水そのものを利用して、小川村~四谷大木戸、内藤新宿(天竜寺)間の往復を計画しています。吃水の浅い平田船(ひらた船 細長い大型川船)で船積荷物が詳細に記されています。
当時の産物と山方と江戸の対応が参考になりますので、紹介します。
一 下り船 大方、山中並びに在々所々より出候、炭・薪・板貫・杉皮・屋根板・諸材木・白箸・下駄・足駄・挽木(ひきぎ)・垣そだ類、荏(え)・胡麻油・米・雑穀・大豆・小豆・大麦・小麦・絹・紬・木綿・苧糸(からむしいと)類、青梅嶋・樹木・野菜類、紙・たばこ・索麺(素麺そうめん)・御馬飼料、其外清浄荷物・・・
一 登り船 大方、米糠・小米・荏・胡麻・水油類、酢・醤油・酒・味噌・塩・木綿・綱・苧糸・綿類、一切荒物・瀬戸物・小間物類、塩肴・干物類、紙・たばこ・・・
③慶応3年(1867)10月
砂川村名主・源五右衛門が計画しました。綿密な「運上目論見書」が残されています。
船の大きさ 敷巾四尺、長さ五間半
上り下り共積荷は一○駄積
人足は下り三人、上り九人(三人掛りで日数三日)
船数は一〇〇艘
一ヵ月六度ずつ上下する
通船の運上金として一八〇〇両、砂利、一三三坪三合を納める
ことになっています(立川市史下p752)。「砂利、一三三坪三合を納める」ことから、次に紹介する幕府の計画と密接に関係していたのではと考えられています。
(2)幕府の計画
慶応3年(1867)8月
幕府が玉川上水に筏を通して、羽村から砂利を輸送する計画をたてました。
問題点を検討するため、関係者に意見紹介をしたようです。これから、砂川村名主・源五右衛門の計画はこの問いに対する目論見とも考えられています。
同年、9月16日には羽村から四谷大木戸まで、筏の川下げを実験しています。
水番人・八十吉(坂本姓)、羽村村名主・源兵衛(島田姓)、人足二名の4人が、羽村を出発、高井戸宿で一泊、翌9月17日八ツ時(午後3時)、四谷大木戸到着とされます。名主源兵衛は自主参加でした。
なぜ、幕府が羽村の砂利の運搬を必要としたのか、その原因が実に興味を引きます。 慶応3年8月頃に記されたと考えられる当時の文書が羽村市史料集八玉川上水論集Ⅱp150に紹介されています。一部を引用します。
「物価追々引上り 殊ニ道造之義は皆御入用之処 当節 人足賃銀砂利代共格外高値ニ而
御出方も相響候間 無余義差延置 於諸家も道手入方不行届既二先達而中外国人乗車通行ニ付 俄ニ御下知等有之候之処 武家寺院町方共兎角難渋申立手数相懸リ・・・」
と記されています。この状況について、同書中、「玉川上水通船の一要因 幕府の砂利輸送計画」の著者である 保坂芳春氏は次のように解説します。
「道の修復に砂利を使うこと、特に「外国人乗車通行ニ付」と、その道路修復の理由を述べていることは注目される。江戸の市中を外国人が、馬車で往来するようになって、砂利を敷いて道を固める必要が出てきたのであった。このために急に砂利の需要が高まってきたのであろう。「殊ニ道造之義は皆御入用の処当節人足賃銀砂利代共格外高直(値)にて」仕方なく修復も「差延」していると、苦しい現状を訴えている。
その高値の砂利が、玉川上水の水元羽村に「堤通江砂利彩敷俊揚置候」という状態になっている。この砂利を「水元羽村より上水堀通水懸リ宜時節見計川下ヶ致シ四谷大木戸水番屋構内江揚置」いて、それを使用すれば、道造りの費用も軽減される。また残った砂利は「望之者へ御払いすれば、江戸市内の道の手入れ方も自然に行き届く」といった効果もあるというのである。」(羽村市史料集8 p147)
幕府による砂利運搬の通船は、 9月16日実験的に行われました。ただし、その段階で明治維新を迎え、その後、 実施されたかどうかは不明です。
・野火止用水の取り入れ口に近く
・村山貯水池・多摩湖の建設と関係があり
・通船には蔵敷村の名主が参加している
玉川上水は、江戸市中への上水給水を目的とし、曠野であった多摩の村々に分水することによって、新田開発に大きく寄与しました。しかし、幕末になって、水上交通路として思わぬ方向へ発展します。
江戸時代中期以降、江戸は巨大都市として伸展し、市中には、多くの物資の集散が求められます。多摩地方でも、農産物、薪炭、木材、織物などが江戸市中へ送られるようになりました。そのルートは、甲州街道、青梅街道、五日市街道などで、いずれも人馬が輸送の中心でした。
多摩川の水利も対象になりましたが、河口からの迂回路が必要で、陸上輸送が中心となりました。そこで、浮かび上がったのが玉川上水の水運利用です。
1 江戸時代の通船計画
(1)商人・名主の計画
①元文3年(1738)
浅草の町人和泉屋(泉屋)平八・五嶋屋次郎右衛門・熊沢屋市郎兵衛らが、「御上水より拾五間程南之方堀候」と、玉川上水に沿って新しい堀を掘って運送用の舟を運行する計画をたてています。野中新田、貫井村、下小金井村、梶野新田の四か村が計画に同意した文書が残されています。現・小平、小金井市周辺の村々で、貫井村周辺から玉川上水の分水を利用するものでした。
元文4年(1739)12月には、福生村から江戸芝までの間に通船堀を掘り、直接多摩川の水を引き入れて、通船する計画も出されたようです。
元文5年(1740)8月まで実施に向けての交渉が続いたようですが、「狭山丘陵南麓の村々の反対によって」(小平の歴史を拓く上p34)立ち消えとなりました。
②明和7年(1770)6月
小川村の東はん(石+番=名主・孫次郎の父)によって出願されています。小川家に文書が残され当時の様子がよくわかります。計画された事業内容は
一 船数二〇艘 巾六・七尺(2m前後)
長六・七間(11~12m)
一 一艘ニ付米五〇俵(一七石五斗)積――馬二五駄分
一 船通行は月六回(五日で一往復)
一 航行区間は小川村――四ツ谷大木戸・内藤宿天龍寺近所
本格的で、玉川上水そのものを利用して、小川村~四谷大木戸、内藤新宿(天竜寺)間の往復を計画しています。吃水の浅い平田船(ひらた船 細長い大型川船)で船積荷物が詳細に記されています。
当時の産物と山方と江戸の対応が参考になりますので、紹介します。
一 下り船 大方、山中並びに在々所々より出候、炭・薪・板貫・杉皮・屋根板・諸材木・白箸・下駄・足駄・挽木(ひきぎ)・垣そだ類、荏(え)・胡麻油・米・雑穀・大豆・小豆・大麦・小麦・絹・紬・木綿・苧糸(からむしいと)類、青梅嶋・樹木・野菜類、紙・たばこ・索麺(素麺そうめん)・御馬飼料、其外清浄荷物・・・
一 登り船 大方、米糠・小米・荏・胡麻・水油類、酢・醤油・酒・味噌・塩・木綿・綱・苧糸・綿類、一切荒物・瀬戸物・小間物類、塩肴・干物類、紙・たばこ・・・
③慶応3年(1867)10月
砂川村名主・源五右衛門が計画しました。綿密な「運上目論見書」が残されています。
船の大きさ 敷巾四尺、長さ五間半
上り下り共積荷は一○駄積
人足は下り三人、上り九人(三人掛りで日数三日)
船数は一〇〇艘
一ヵ月六度ずつ上下する
通船の運上金として一八〇〇両、砂利、一三三坪三合を納める
ことになっています(立川市史下p752)。「砂利、一三三坪三合を納める」ことから、次に紹介する幕府の計画と密接に関係していたのではと考えられています。
(2)幕府の計画
慶応3年(1867)8月
幕府が玉川上水に筏を通して、羽村から砂利を輸送する計画をたてました。
問題点を検討するため、関係者に意見紹介をしたようです。これから、砂川村名主・源五右衛門の計画はこの問いに対する目論見とも考えられています。
同年、9月16日には羽村から四谷大木戸まで、筏の川下げを実験しています。
水番人・八十吉(坂本姓)、羽村村名主・源兵衛(島田姓)、人足二名の4人が、羽村を出発、高井戸宿で一泊、翌9月17日八ツ時(午後3時)、四谷大木戸到着とされます。名主源兵衛は自主参加でした。
なぜ、幕府が羽村の砂利の運搬を必要としたのか、その原因が実に興味を引きます。 慶応3年8月頃に記されたと考えられる当時の文書が羽村市史料集八玉川上水論集Ⅱp150に紹介されています。一部を引用します。
「物価追々引上り 殊ニ道造之義は皆御入用之処 当節 人足賃銀砂利代共格外高値ニ而
御出方も相響候間 無余義差延置 於諸家も道手入方不行届既二先達而中外国人乗車通行ニ付 俄ニ御下知等有之候之処 武家寺院町方共兎角難渋申立手数相懸リ・・・」
と記されています。この状況について、同書中、「玉川上水通船の一要因 幕府の砂利輸送計画」の著者である 保坂芳春氏は次のように解説します。
「道の修復に砂利を使うこと、特に「外国人乗車通行ニ付」と、その道路修復の理由を述べていることは注目される。江戸の市中を外国人が、馬車で往来するようになって、砂利を敷いて道を固める必要が出てきたのであった。このために急に砂利の需要が高まってきたのであろう。「殊ニ道造之義は皆御入用の処当節人足賃銀砂利代共格外高直(値)にて」仕方なく修復も「差延」していると、苦しい現状を訴えている。
その高値の砂利が、玉川上水の水元羽村に「堤通江砂利彩敷俊揚置候」という状態になっている。この砂利を「水元羽村より上水堀通水懸リ宜時節見計川下ヶ致シ四谷大木戸水番屋構内江揚置」いて、それを使用すれば、道造りの費用も軽減される。また残った砂利は「望之者へ御払いすれば、江戸市内の道の手入れ方も自然に行き届く」といった効果もあるというのである。」(羽村市史料集8 p147)
幕府による砂利運搬の通船は、 9月16日実験的に行われました。ただし、その段階で明治維新を迎え、その後、 実施されたかどうかは不明です。
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“玉川上水への通船1 江戸時代,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1773.