玉川上水への通船2 明治時代の通船開始

1五日市街道の大欅_砂川村の名主家.jpg
2通船により分水口は整理されました.jpg
3「足場」は散歩道として親しまれています.jpg
4村のおおよその位置を示す概念図.jpg
5小川橋船溜位置図.jpg

タイトル (Title)

玉川上水への通船2 明治時代の通船開始

詳細 (Description)

1通船願い
 江戸時代末期、商人、名主は玉川上水への通船を願い出ました。幕府も砂利運搬計画をもって上水への筏利用を図ります。この時期に明治維新を迎えました。地元の名主は、明治2年(1869)になると名を連ねて通船願いを提出します。羽村から内藤新宿・四谷大木戸間の舟運です。
  玉川上水船筏通行願
    明治二年九月
      武州多摩郡羽村名主源兵衛 砂川村名主源五右衛門、福生村名主田村半十郎

 玉川上水は羽村から堰入れ、武蔵野中央を流通すること一三里を経て、東京に達する。流域一〇里四方の村々は、古の武蔵野にて薄地軽土(痩土)のため、穀物はもちろん野菜の栽培には大量の糠、藁灰(わらばい)などを必要とする。これらの物資の付け送りは東京からもっぱら駄馬に頼っている。且つ、水源甲州山中では耕作の地がなく、杉・檜炭薪を東京に出し夫食に替えているが、高値になり、疲弊している。そのような状況下で、これらの輸送は駄馬による搬送のため、近ごろは駄賃が高騰して難渋している。
 これら諸物資の大量にして安価な運送のために、玉川上水通船を許可して欲しい。許可されれば、甲信両州までも影響莫大で、運送価格の引き下げによって、江戸市中の物価の安定にも寄与し、国益第一にしようとするものである。
 覚
 船運開始による租税上納方については、
 船数一〇〇艘、一艘につき税金一〇円、合計一〇〇〇円
 筏三〇○○枚で年間税金一五○○円、
 その他で合計二八〇〇円上納を見込む
                    (意訳 原文は『立川市史下』p753~754)
 この願いは新政府によって次のように許可されました。東大和市に残る『里正日誌』では、次の2政府からの通知に記すように「玉川砂利御用」と幕末の幕府の方針が生きていることがわかります。
 なお、『立川市史下』は「請願者らは、恐らくこの願書を提出すると同時に、砂川源五右衛門が知遇を得ていた三条実美・江藤新平等政府高官にも直接とりなしを頼んだことであろう。」と記します。
2政府からの通知
願いは明治2年(1869)10月28日に叶えられました。「玉川上水路通船御開之義達」として、東大和市内野家に保存される『里正日誌』に次の通り記録されています。意訳します。
「玉川砂利御用につき、この度上水源羽村より四谷内藤新宿まで通船を開くので有志の者は願い出なさい。もっとも一ヵ村で多くの船数は許可出来ないく、三艘までは許されるので、詳細については民部省の土木司へ来て照会しなさい。上水付村々へ。
 明治2年10月28日
   民部省 土木司
 これについて、明治2年11月5日、砂川村名主源五右衛門から
 有志の方は民部省 土木司へ出願下さい
と通知が来ます。

 政府からの達しに対して、これまで運動を続けてきた村々がさっそく反応します。明治3年(1870)2月、「玉川上水御上水源人足村々」が集まり、各村一艘以上の参加を決めました。ただし、『福生市史』は石川弥八郎日記 明治3年2月13日を引用し
 「昨十二日羽村より集会ふれ参り候につき、三郎左衛門を遣し候ところ、御上水へ通船出来に相成り候趣、咋年中御達これあり候処、尚又今般のぞみの者出願すべき旨仰せ渡され、もつとも年々運上の儀、船一艘につき金十両づつさし出すべき旨仰せ渡され候よし、羽村役人より相談これあり候趣、よんどころなく当方も一艘お受け仕り候」
 とあり、有力者の中には、不本意ながらも船主に名前を載せていた者がいたことを示している。」(『福生市史下』p288)
としています。案外参加者を集めるのに困難な面があったのかも知れません。明治3年(1870)3月25日には造船数に制限を付けないとの達しが出されています。
3準備
 通船のためには準備が必要でした。その対応は幕末以来の経過から地元の人たちにはある程度の調査が進んでいたのかと思わせるほど迅速です。
 明治2年(1869)9月「玉川上水船筏通行願」提出
 明治2年10月28日「玉川上水路通船御開之義達」で通船可能となる
 明治2年10月、上水両縁の切り広げ工事調査
 明治3年3月11日から5日間工事施工
 明治3年3月22日、舟溜の設置許可
 という猛スピードでした。
 通船は往=下り(羽村から四谷大木戸)は上水の自然水流に乗って船頭3人、復=登り(四谷大木戸から羽村)は2人の船子が舟に綱を付けて上水の両縁の堤の上から引っ張りあげる、いわゆる「曳舟」(1人は舵取り)で行われました。このため、上水の狭い部分の切り広げ、竹木の伐採、橋の嵩上げ、船溜場(ふなだまりば)、曳舟の足場などの整備が必要でした。
(画像:通船により分水口は整理されました。小川分水の場合、トンネル方式の「たぬき堀」であったため、開渠になった部分を紹介します。左側が玉川上水、右側が新堀です)
 上水両縁の切り広げ工事は、24カ所が必要であるとの調査結果があり、早くも明治2年10月には行われたようです。面白いのは羽村から小川村までは巾が2間以上であったのに、小川村から高井戸の大六天橋までは9尺でした。そのため3尺(約90センチ)の切り広げが必要でした。工事は明治3年3月11日から5日間、玉川上水を水留めにして実施しています。その間の飲み水はどのようにしたのでしょうか?
 上水に架る橋は、舟の走りと曳舟のため、平水面から五尺(約160センチメートル)の嵩上げ(かさあげ)が必要でした。明治3年3月22日には、舟溜の設置許可が下りていますから、それまでに実施されたものと思われます。
 東大和市周辺では切り広げの必要はなかったようですが、橋のかさ上げが行われました。玉川上水駅南側の現在「請願院橋」と呼ばれる橋は当時「八ノ橋」と呼ばれ、「二尺」、つまり60㌢ほど高くしています。舟溜は小川村地先久右衛門橋下と小川橋より60間上ノ砂川村に設けられることが決まりました。
4通船の開始
 明治3年(1870)4月15日、羽村~内藤新宿・四谷大木戸間通船許可=試運航、5月28日に通船は開始されました。『小平市史近現代編』では「羽村など六艘の船に極印が打たれ、通船が開始された。」(p69)とします。東大和市周辺など中流域以下の区域では、その後、急速に参加が行われたようです。
船の大きさは許可の条件が「長さ六間、幅五尺まで」となっていますので、長さ約11メートル、幅1メートル50センチ以下となります。幅の狭い縦長の船が行き来したことになります。
①埼玉県の村も参加
 通船への参加者は急速に増加しました。明治3年9月の状況を『「玉川上水通船ノート(2) たましん地域文化財団』(p11)で梅田定宏氏が紹介されています。それによれば参加した村は
 上直竹(現・埼玉県飯能市)、川辺、新町、千ヶ瀬、友田、羽村、下草花、五ノ神、川崎、福生、箱根ヶ崎、
 熊川、蔵敷、砂川、小川、小川新田、野中新田、鈴木新田、廻田新田、境新田、角筈
 で、玉川上水に近い蔵敷(東大和市)から玉川上水を遠く離れた上直竹(埼玉県)や箱根ヶ崎など狭山丘陵の麓の村が参加しています。
舟数の推移は
  明治3年5月6艘、6月18艘、8月3艘、9月21艘、10月5艘で、計53艘とされます。
 また、明治4年10月28日現在の様子は『立川市史』p761に持ち船の数と共に、次のように記されています。
青梅名主 5 川辺名主 1  新町名主 1 千ヶ瀬名主 2 友田組頭 1 羽村名主 14
 川崎名主 3 福生名主 18 熊川名主 5 拝島村舟持惣代百姓 3 宮沢新田年寄 3
 砂川名主 22 小川組頭 10 小川新田組頭 1 野中新田舟持惣代百姓 2
 廻田新田名主3 鈴木新田舟持惣代百姓 2 梶野新田舟持惣代百姓 1
 境新田舟持惣代百姓 3 連雀村舟持惣代百姓 2 吉祥寺村舟持惣代百姓 2
 で、稼動総数は104艘、村に入れ替わりがあることがわかります。圧倒的に多いのが
  羽村名主 14 福生名主 18 砂川名主 22艘です。
②蔵敷村名主の参加
 東大和市域では、明治3年(1870)6月2日、蔵敷村名主内野杢左衛門が船一艘をもって舟運に参加しました。『里正日誌』によれば、
 明治3年玉川上水通船開始につき、同年6月、水路かかり砂川村名主源五右衛門の「吹挙」に付き船一艘打ち立て・・・として参加しました。
 明治3年9月2日、請書を提出しています。ここにも、砂利運搬が記されています。当時の様子がよくわかりますので、意訳して紹介します。
 明治三午九月二日 大木戸で、土木司御役所の役人によって船へ御極印をお願いしたときの請書の写、
 指上申御請書之事
一、玉川御上水源の羽村より四ツ谷内藤新宿まで、今般、通船が開かれましたので、
 私共村々の産物諸品運輸のため、長さ六間、幅五尺弐寸の船壱艘、ご許可下さり有り難く幸せに思います。
 水行に支障来さないように致します。ついては、
 ・船ごとに、便桶を一つ用意し、上水を決して汚さぬように致します
 ・当年は船一艘につき砂利一坪並びに金拾両を上納致します
 ・砂利の御入用の節は、お申し付け頂き次第、四ツ谷大木戸御会所へ積送り御見分頂きます
 ・税金については七月・十二月の2回、上納致します
 ・以後は運送盛衰にしたがい、御申しつけがあり次第上納致します
 ・御規則、ご命令については正しく守ります
                        蔵敷村船持名主 杢左衛門
                         組頭 半左衛門
            明治三午年九月二日
    土木司御役所
 ◎この時、船溜は「小川・砂川両村合併」して小川橋際へ掘り込まれました。『里正日誌』11巻p262に図が記載されています。当時の図は北が下方に記されるため、南北を逆にして図にしました。(画像:小川橋船溜位置図 小川橋から玉川上水の上流を見ると左側にそこだけ広くなっている状況が見られます)

 めでたく船は玉川上水を上下しました。『小平市史』は「小川村の船溜に周辺地域の物資が集中しはじめ、小川村が北多摩の青梅街道西部地域(東村山市、東大和市、武蔵村山市、立川市北部)の物資流通の一つの中心地となりつつあったことをあらわしているといってよいであろう。」(p71)としています。

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“玉川上水への通船2 明治時代の通船開始,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年2月22日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1774.