玉川上水への通船4 通船の廃止

1「小川村地内合樋分水新掘割」.jpg
2「小川村地内合樋分水新掘割」2.jpg
3『里正日誌』第十二巻p272.jpg

タイトル (Title)

玉川上水への通船4 通船の廃止

詳細 (Description)

1沿岸住民の妨害
 玉川上水上流部では、通船の主体者となる村々が沿線を占めていましたが、下流部では関わりが薄く、高井戸、笹塚周辺からは妨害行動が起こされています。通船が開始されて間もなくの明治3年(1870) 5月、次の状況があったことを東京市史稿は伝えます。
 「当五月二十二日、三日小川村地内合樋分水新掘割村々人足のうち、塊をもつて投げつけ、上高井戸地内にて百姓躰の男、小石をもつて投込み逃げ去り、梶野新田地内にて夜半頃何者に候哉石投げ込み、角筈村通りにて見物の者共、此船ゆえに迷惑いたし候間、戸田屋敷ドンドンにて打毀せ度など、そのほか口々悪口申つのり候ものこれあり」
 さっそく、分水口を野火止分水の箇所で統合された新掘割村々の人々が妨害運動に加わっていることがわかります。 これらの動きに対し、船主たちは、「御用」と印した幟を船一艘ごとに立てて運航することを願い出ました。担当の土木司は「もっともなところだが、目印にもかかわらず同様のことが行われるとご失態、ご威光ににも関わるので」通船の妨げにならないように「取り締まりを強化」すべきと命じて、終わらせています。(立川市史上p786)
(画像:左側の柵の地下に「小川村地内合樋分水新掘割」があります。通船が行われた玉川上水は右側です)

(画像:「小川村地内合樋分水新掘割」の胎内堀から開削堀になる地点)
 玉川上水から直接分水を得ていた村々は、通船後はこの新堀から分水されたため、下流の分水は制限されてことが想定されます。
2神田川への接続願い
 通船の船主は、事業拡大のため4回の拡張工事願いを提出しています。その第4回目は、四谷大木戸から東京市中への陸送が負担であったらしく、玉川上水を神田川へつなげる水路の開削願いでした。しかも、官費による開鑿請願で、明治4年(1871)11月に願い出ます。
 これには分水を受ける村々から、分水量の不足を危惧し、反対運動が起こります。両者示談による解決をとの指示が出されましたが、示談は成立せず、そのまま持ち越されました。
3通船の廃止
 通船開始後、2年を経過して、玉川上水の水質汚濁が問題となり、飲み水に支障を来し始めたようです。明治5年(1872)3月、東京府は水質検査を実施します。その結果、東京府は大蔵省土木寮へ明治5年(1872) 3月24日、
「百般の不潔は、もっぱら通船より相生じ候儀につき、通船差止め申さずして、ほかに改正の見込み絶てこれなく候」
 と通船の差し止め方を進言しました。大蔵省は一ヶ月も間を置かず、同年4月15日、

「玉川上水通船相開き候以来、追々船数相増し、自然不潔にいたり、東京府下用水さしつかえにおよび候につき、来る五月晦日限り上水路通船さし止め候条船持共へ洩らさざるよう相達すべく候」
 と通船の停止を決定します。時の大蔵大輔は井上馨です。こうして、通船は開始後2年1ヶ月をもって廃止されました。
 廃止された明治5年(1872)5月30日は、上水に関する事務の所管が国から東京府に移された日です。
 事業に関わった人々はさぞ混乱したと思われますが、東大和市に伝わる理正日誌は淡々と「玉川上水路通船差し止めの義達し」として、神奈川県庁から届けられた文書を綴り込んでいます。何があったのかは他の資料に委ねられます。この後、直ちに提出された再開願いには「蔵敷村」の名前が入っていません。その理由も明らかではありません。

Item Relations

This item has no relations.

Collection

Citation

“玉川上水への通船4 通船の廃止,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年4月19日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1776.