大まかな歴史の流れ 大正時代

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タイトル (Title)

大まかな歴史の流れ 大正時代

詳細 (Description)

 明治45年(1912)7月30日、明治天皇没、皇太子嘉仁(よしひと)践祚、大正と改元されました。米価の変動、暴騰の激しい中でした。この年4月に、狭山丘陵の地に村山貯水池の建設が決まり、村人の関心を強く集めていた時でした。東大和市域の大正時代はここから始まると云って良さそうです。
1村山貯水池の建設
 村山貯水池の建設は東大和市にとって古村を湖底に沈め、全世帯が移転をするという大きな出来事でした。明治末からその動きが始まり、大正期は集落が移転し、全時代を通じて工事が進められました。
貯水池建設計画 明治42年(1909)、東京の水不足、人口増への対応もあり、上水の抜本的な対策が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として工学博士中島鋭治氏を中心に貯水池の建設が提案されました。明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
村山貯水池の建設決定 東京市区改正委員会は明治45年(1912 )4月5日、5月5日に集中審議を行いました。審議は伯仲し、工事の難易、工費などから、結果として②狭山丘陵案が採用されました。
・大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
・大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる「東京市上水道拡張計画」(7カ年の継続事業)が決定されました。
村山詰所設置 大正3年(1914 )1月10日、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。
移転反対住民大会 東京市の動きに住民は反発します。大正3年(1914)1月22日、移転反対住民大会を開き次のように決議しました。
 「・・・土地ヲ挙テ買収セントス 実ニ該地住民ノ死活問題ナリ・・・
 然リト雖モ・・・人口二百有余万ノ生命ニ係ル国家的一大事業タリ
 故ニ吾人ハ溭リニ該故地ニ就テ云以スル愚ヲ学ザルモ
 祖先墳墓ノ地ヲ永久ニ棄ルノ情誼ニ於テ誰カ悲惨ノ極ナラザラン
として
 ・土地買収に対しては住民共同一致の行動をとる
 ・土地の価格については一定の標準を持って企業者と協議する
事を決議します。
事務の委嘱 このような動きの中で、東京市は地元の有力者に水道拡張工事に関する事務の委嘱(いしょく)をしました。委嘱者は
・大正3年(1914)2月23日、高木村他五ヶ村組合長、東村山村長
・大正3年(1914)2月25日、村山地方の有志者15名
 でした。円滑な事業の実施が目的と推定されますが、委嘱を受けた方も複雑なものがあったと思われます。後に売却反対の立場に立つこともありました。
貯水池建設工事請負運動 一方では、大正3年(1914)1月、貯水池建設に関わる工事請負運動が起きました。地元の三ツ木村、中藤村、岸村(以上現・武蔵村山市)、芋窪村、蔵敷村(以上現・東大和市)などの「村民有志」が工事請負の請願を提出します。
 「・・・高木村組合は・・・村総面積の約3分の1の人家並びに有租地を失うの結果収入並びに村民の生産力に多大の減損を来すべきは疑いを入れる余地なき・・・」として、高木組合村の工事は高木組合村に、中藤組合村の工事は中藤組合村に「村請負」として発注する方針を立てよと訴えています。
 結果的には、技術や資本の問題があったのでしょうか、「村請負」は成立しませんでした。
村山軽便鉄道敷設免許申請 もっと早かったのが鉄道建設の動きです。大正2年(1913)12月14日、地元の有力者が村山地方に軽便鉄道を敷設したいとの申請を総理大臣(山本権兵衛)に行いました。箱根ヶ崎から新宿近くまでのルートです。
 発起人は
 北多摩郡 中藤、岸、三ッ木村、田無町、東村山、小平、芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、狭山、郷地
 西多摩郡 殿ヶ谷、石畑、箱根ヶ崎
 南多摩郡 八王子町、
 東京市  日本橋、麹町、四谷
 の各地域の豪農、有力者達の総勢42人の面々です。
申請の内容は
・村山軽便鉄道株式会社を創設する
・東京府西多摩郡箱根ヶ崎村を起点として、北多摩郡東村山村、田無町を経由、豊多摩郡戸塚村に至る区間35.4㌔に蒸気鉄道を敷設する 。
・村山貯水池築造に要する材料運搬の利便をはかる
・交通空白地帯の解消をはかり、沿線の乗客、および貨物運輸に資する
 というものでした。
川越鉄道に譲渡
・大正4年(1915)3月25日、総理大臣から村山軽便鉄道に免許状が下付されました。しかし、
・大正4年12月28日、発起人総代より首相に対して、村山軽便鉄道敷設の権利を、一切、川越鉄道に譲渡する旨が申請されました。理由ははっきりしませんが、第一次世界大戦の影響による経済的事情、政治的背景、他の鉄道事業との関連などの指摘があります。
・大正5年(1916)5月20日、譲渡はサッサと許可されています。
・大正11年(1922)、川越鉄道は西武鉄道と改称し、新しい会社になりました。ややこしいのですが現・西武鉄道と区別して、旧・西武鉄道と呼ばれます。
・昭和2年(1927)、西武鉄道は旧村山軽便鉄道の免許を流用する形で、東村山~高田馬場(仮駅)間を開業しました。村山線と呼ばれました。こうして、現在の西武多摩湖線、西武拝島線などの原型が生まれました。しかし、「村山貯水池築造に要する材料運搬の利便」は図られず、貯水池建設のための軽便鉄道が敷かれます。詳細は別に記します。
用地買収・価格発表 このような動きの中で、大正4年(1915)2月15日、用地買収が開始され、価格が発表されました。
 一坪(3.3㎡)あたりの価格は
 山林・原野 43銭、畑 73銭などでした。当時の特級酒は1升1円とします。
土地売り渡し拒絶 住民には受け入れがたいことでした。大正4年(1915)2月28日、土地買収の承諾を拒絶します。
 当時売買格ノ半額ニ達セス、・・・故ニ、同月二十二日移住民約弐百名地主四百名余会同シ、買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論、該用地ハ他へ変更ヲ期セント決議シ、・・・
土地の売り渡し しかし、事態は急速に動きました。全体で190件の内、大正4年(1915)7月には194件が売り渡しを承諾し、12月までには265件の承諾がされています。背景には工事請負運動があり、山口貯水池の建設が示唆されたと伝えられます。
村山貯水池敷地内住民移転開始 大正4年(1915)7月、用地の買収とともに移転が開始されました。
 総戸数162戸、移転先は東大和市域内がほとんどで、19戸が市域外でした。
 一峰超えての移転です。多くが人力でした。神社や寺、墓や石造物も移転しました。
地鎮祭 大正5年(1916)6月4日、村山貯水池の起工式が挙行されました。2本のアーチが建てられ多数の来賓が出席しています。反面、村人達の間では「雨が降っただ・・・」と言い伝えられます。
貯水池工事建設ブーム 工事が始まると村は活気づきました。折からの不況に働く場、現金収入の場に乏しかった村人たちにとって格好の働き場でした。現在のダム工事とは違い、当時の工法から人力による工事が多く、「女衆」もタコつきに出ました。小学生達もムシロ敷のアルバイトをしました。
 「山、一坪と子どもの日当が同じだなんぞ、どこか狂ってるべえ・・・。」
 と、話す古老も居ました。しかし建設ブームは続きません。工事が完成すると、折からの不況と学校建設問題が重なり、村は財政危機を迎えます。
強制収用 大正8年(1919)11月5日、用地の一部所有者(6名)が買収協定に応ぜず、東京市が内務大臣に土地徴収金・価格の決定申請をしました=強制収用。
・12月25日、内務大臣の裁定によって、東京市の収容申請が認められました。
工事の完成 
・上貯水池 大正13年3月、村山上貯水池は完成し、3月30日、竣工式が行われました。東村山停車場前にはアーチが立てられ、式典場にはテント張りの式場が設けられ、張り舞台では囃子連が賑やかに演じたとされます。
・下貯水池 関東大震災で遅れた下貯水池も「帝都復興事業」として促進され、下堰堤は、大正13年(1924)5月31日、竣工し、その他の付帯工事も含め、昭和2年(1927)3月31日、完成しました。そして、その他残された工事、残務整理を処理し、村山貯水池全体は昭和3年(1928)3月31日完了しました。
2大和村の成立
 貯水池建設が進む最中です。村人達は大きな選択を迫られます。大正時代初期、東大和市域には、江戸時代からの芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の独立した村と、それらの村が広域に形成した「高木村他五ヵ村組合」がありました。ここに、
・農産物価格の下落、米価の高騰、織物業の不況などの厳しい経済事情
・次々と求められる教育施設の整備
・貧困な財政
 など、厳しい日々に直面しました。
 大正7年(1918)8月の米騒動に象徴されるような経済、社会情勢の中で、小学校の教室不足解消問題が浮上します。当時、村は芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の「各村」とこれらの村で構成する「高木村他五ヵ村組合」で成り立っていました。
 このままでは、新しい課題として眼前に迫る教育施設や地域整備をすることは無理であることがはっきりしてきました。村人達は二重行政の解消に動き始めました。大正8年(1919)2月25日、村議会で「各村」を合併し、「高木村他五ヵ村組合」を廃して、新しい村をつくることを議決しました。
「狭山村 高木村 清水村 奈良橋村 蔵敷村 芋窪村ノ六ケ村ヲ合併シ新ニ一村ヲ設置センコトヲ其ノ筋ニ請願スルモノトス
 但、現在ニ於ケル各村ノ名称ハ其ノ区域ト共ニ大字トシテ存置シ 各村有ノ財産ハ其ノ大字有財産トシテ存置スベク 又 現在組合ノ財産ハ新ニ設置スペキ村有財産トナスモノトス」
 として、大正8年(1919)11月1日、各村を合併し、新たに「大和村」とすることにしました。『大和町史』は次のように記します。
 「合併は順調に進んだ。・・・六力村が一体となり、互いに和することが望まれた。蔵敷の内野家の前には、折しも村山道(現在の青梅街道)の修復完成を併せて祝福するアーチが作られた。そこには、新しい大和村の今後の道を示すように、「道平らかにして人和す」と大書された額が、かかげられた。」(p430)
 人口 5,190人、戸数 770戸でした。
3苦肉の策の小学校
 一つの村になって、解決を迫られたのが小学校問題でした。大和村の村域には、明治末から第一、第二、第三村山尋常小学校の3校がありました。時代を経るに従って学齢児童の増加に苦慮します。本来なら小学校の増改築をすべきなのに、 厳しい財政からそれができませんでした。やむなく、通学区の変更、児童の割り振りで処理をしていました。ついに、大正7年度(1918)から、第一、第三村山尋常小学校で2部授業をする状況になりました。
 やはり、これは無理のようでした。大正9年度(1920)の村議会は「二ヵ年経過に鑑み成績あまり良好ならざる」として、新たな対応策に直面します。
 検討を重ねた結果、大正9年(1920)9月、これまでの3校の内、第二村山尋常小学校を廃校して、 そこに、第一、第三村山尋常小学校の高等科児童を集め、分教場として発足する方式をとりました。しかしこれも一時的な便法でした。すぐ行き詰まり、翌年には、さらなる対策が求められます。
 このような経過を経て、大正11年(1922)に、新しい小学校の建設を決めました。窮迫する財政状況で厳しい局面が続いたと推定されます。大正12年(1923)3月、現在の第一小学校の位置に3校を統合して村山尋常高等小学校が建設されました。開校記念日を3月15日とします。
 用地買収費、その財源などについては調査未了ですが、校舎の建築費は33,090円でした。内25,000円は借金(地方債)でまか なっています。この状況から、『大和町史』は「校舎新築計画は、やむなく必要とするところの半分で・・・」あった
とします(p458)。
 芋窪にあった第一、狭山にあった第三村山尋常小学校は分校となり低学年が通学しました。
4村騒動
 丁度、村山貯水池の建設が山場を迎え、小学校の建設が進む時期、村騒動がおこります。大正12年(1923)3月、職務管掌の状態となりました。村長に東京府から派遣される他の村の人を迎える状況でした。詳細は不明です。『大和町史』は次のように説明しています。
「村政の複雑化に応じて、これを処理する有能人として他村の人を村長に迎えた。この輸入村長をめぐって、村長排斥の紛争が起り、村長排斥の自治派と村長擁護派の対立が、ついに村を二分する争いにまで発展した。」(p435) 
 この状況は大正13年(1924)2月9日、村民の関田安右衛門が村長となるまで続きました。騒動の直接の原因、解消の状況など知りたいところですが、資料を目にすることができません。
 この間に大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生しました。幸いなことに大和村では、罹災した家や死傷・行方不明者はありませんでした。
5その後
大正13年(1924)
・2月9日、関田安右衛門村長となる 昭和10年5月9日まで
・3月31日、村山上貯水池完成
・5月5日、立川陸軍航空第五大隊が聯隊制をとる。立川には陸軍飛行第五聯隊が駐屯する。(『立川市史』下p1135)
大正14年(1925)
 大正14年(1925)10月1日、第二回国勢調査が行われました。大正9年(1920)10月1日実施第一回国勢調査結果と比べると次の通りです。
 大正14年 世帯919 人口 5048 男 2447 女 2601 一世帯当たり人口 5,49
大正09年 世帯892 人口 5017 男 2452 女 2565 一世帯当たり人口 5,62
 この5年間に27世帯、31人の増であったことがわかります。
 また、別の調査では養蚕戸数が780戸でした。(東京府統計書 『武蔵村山市史』下p325)
 大家族で、農業をしながら養蚕に携わっていたことがわかります。
 財政の変化は次の通りです。
 常に教育費の捻出に追われていました。
 以上のように、東大和市(大和村)の大正年間は村山貯水池の建設が大きく村に影響し、農業と養蚕で生業をたて、学校建設に追われていました。そして、大正15年(1926)12月25日、昭和と改元し、次の時代に入ります。
 大正十五年の年号を残す橋柱があります。村山貯水池下堰堤の近く、十二段の滝に架かる滝見橋の橋柱です。 

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