移転地住民大会
タイトル (Title)
移転地住民大会
詳細 (Description)
村山貯水池(多摩湖)移転地住民大会
大正3年(1914)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量のための東京市の職員の詰め所が設けられました。その動きを目にして、東大和市域の村人達は行動を起こします。
・大正3年(1914)1月22日、移転地住民大会
・大正3年(1914)2月23日、水道拡張工事に関する事務の委嘱
・大正3年(1914)7月16日~17日、土地買収事務の打ち合わせ
・大正3年(1914)9月21日、事情陳述のため地元有志77名が東京市に出頭
◎東京市からの地価の提示は大正4年(1915)2月15日です。その前に起こされた運動であることに留意が必要です。
1移転地住民大会
測量のための詰め所が設置されると間もなく、移転地住民大会が開かれたことが伝えられます。大会の場所や出席者などは不明ですが、次のような大会趣意書と決議文が残されています。
文中「本組合芋窪村裏組・・・」の意味は次の通りです。
・当時、東大和市域には6つの村が、それぞれ独立性を保ちながら、事務を共同処理するため「高木村他五ヶ村組合村」を構成していました。その組合を指し
・「芋窪村裏組ヨリ清水村裏組ニ至ル間」については、狭山丘陵南麓を表と呼び、貯水池に沈んだ谷を裏と呼んでいたことによります。
・該当する面積 324町8反6畝(3,21平方キロ)、村総面積の約23%に当たります。
・対象農家 162戸 当時の高木村他五ケ村組合村の総戸数は771戸で、約20%に相当します。
・住民は、交渉は各人別に応じないで、共同一致の行動をとろう
・土地の価格、補償などについては、基準を設けて東京市と協議する
と決議しています。
2事務の嘱託
このような動きの中で、
・大正3年(1914)2月23日、東京市は高木村他五ヶ村組合長、東村山村長
・同年2月25日、村山地方の有志者15名に水道拡張工事に関する事務を嘱託しています。円滑な事業の実施のための手段であったのでしょうが、東大和市史資料編2は次のように分析しています。
「そして、同年七月十六日、十七日の二日にわたり○○ほか一五名の嘱託員を市庁舎に呼び土地買収事務の打ち合わせを行っている。この打ち合わせの内容は知るよしもないがこの時、買収価格が示されたのではないかと推測される。
一九一四年(大正三)九月二十一日、村山貯水池敷地買収の件に関しその土地関係者○○外七六名、本市に事情陳述のため出頭す、助役宮川鉄次郎之に面接する、と工事日誌に記されている。
おそらく、嘱託員が打ち合わせに呼ばれその価額の低いことが関係住民に知れ渡り、そのままでは買収には応じられないという動きが急速に広まったものと思われる。そして約二か月の間、個々の思惑、さらに情報のやりとり、嘱託員との相談、などあらゆる動きがあったものと思われる。
その結果の止むに止まれぬ行動が七六名という多勢での直接陳述となったのであろう。」(p24)
後に東京市の助役が議会での議員からの質問に
「嘱託ヲ受ケタル人々ハ初メ市ニ好意ヲ表シタルモ、市ノ買収評価ガ彼等ノ予想ノ三分ノ一内外ニ過ギザルコト明白ト為ルニ及ンデ、彼等ハ忽チ売却反対ノ急先鋒ト変ジタレバナリ」
と答えているところを見ると、この嘱託は、必ずしも、当初の思惑通りには進まなかったことが推測されます。
3その後の経過(水道工事日誌)
村人達との交渉の一方で
・大正三年十一月六日、村山貯水池敷地中、芋窪、蔵敷、奈良橋、清水、狭山等ノ各村ノ土地買収案ヲ市参事会ニ申請ス
・大正四年一月二十六日、市参事会ハ同土地買収案ヲ可決ス
・大正四年二月十五日、村山貯水池敷地買収価格ヲ発表ス
と事務は進められています。関係者はそれぞれの村の狭山丘陵の峰を境とした表と裏、加えて、広域で形成している組合村との関係に気を遣いながら直面する課題に対処することになりました。その労苦は思いやられます。
大正3年(1914)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量のための東京市の職員の詰め所が設けられました。その動きを目にして、東大和市域の村人達は行動を起こします。
・大正3年(1914)1月22日、移転地住民大会
・大正3年(1914)2月23日、水道拡張工事に関する事務の委嘱
・大正3年(1914)7月16日~17日、土地買収事務の打ち合わせ
・大正3年(1914)9月21日、事情陳述のため地元有志77名が東京市に出頭
◎東京市からの地価の提示は大正4年(1915)2月15日です。その前に起こされた運動であることに留意が必要です。
1移転地住民大会
測量のための詰め所が設置されると間もなく、移転地住民大会が開かれたことが伝えられます。大会の場所や出席者などは不明ですが、次のような大会趣意書と決議文が残されています。
文中「本組合芋窪村裏組・・・」の意味は次の通りです。
・当時、東大和市域には6つの村が、それぞれ独立性を保ちながら、事務を共同処理するため「高木村他五ヶ村組合村」を構成していました。その組合を指し
・「芋窪村裏組ヨリ清水村裏組ニ至ル間」については、狭山丘陵南麓を表と呼び、貯水池に沈んだ谷を裏と呼んでいたことによります。
・該当する面積 324町8反6畝(3,21平方キロ)、村総面積の約23%に当たります。
・対象農家 162戸 当時の高木村他五ケ村組合村の総戸数は771戸で、約20%に相当します。
・住民は、交渉は各人別に応じないで、共同一致の行動をとろう
・土地の価格、補償などについては、基準を設けて東京市と協議する
と決議しています。
2事務の嘱託
このような動きの中で、
・大正3年(1914)2月23日、東京市は高木村他五ヶ村組合長、東村山村長
・同年2月25日、村山地方の有志者15名に水道拡張工事に関する事務を嘱託しています。円滑な事業の実施のための手段であったのでしょうが、東大和市史資料編2は次のように分析しています。
「そして、同年七月十六日、十七日の二日にわたり○○ほか一五名の嘱託員を市庁舎に呼び土地買収事務の打ち合わせを行っている。この打ち合わせの内容は知るよしもないがこの時、買収価格が示されたのではないかと推測される。
一九一四年(大正三)九月二十一日、村山貯水池敷地買収の件に関しその土地関係者○○外七六名、本市に事情陳述のため出頭す、助役宮川鉄次郎之に面接する、と工事日誌に記されている。
おそらく、嘱託員が打ち合わせに呼ばれその価額の低いことが関係住民に知れ渡り、そのままでは買収には応じられないという動きが急速に広まったものと思われる。そして約二か月の間、個々の思惑、さらに情報のやりとり、嘱託員との相談、などあらゆる動きがあったものと思われる。
その結果の止むに止まれぬ行動が七六名という多勢での直接陳述となったのであろう。」(p24)
後に東京市の助役が議会での議員からの質問に
「嘱託ヲ受ケタル人々ハ初メ市ニ好意ヲ表シタルモ、市ノ買収評価ガ彼等ノ予想ノ三分ノ一内外ニ過ギザルコト明白ト為ルニ及ンデ、彼等ハ忽チ売却反対ノ急先鋒ト変ジタレバナリ」
と答えているところを見ると、この嘱託は、必ずしも、当初の思惑通りには進まなかったことが推測されます。
3その後の経過(水道工事日誌)
村人達との交渉の一方で
・大正三年十一月六日、村山貯水池敷地中、芋窪、蔵敷、奈良橋、清水、狭山等ノ各村ノ土地買収案ヲ市参事会ニ申請ス
・大正四年一月二十六日、市参事会ハ同土地買収案ヲ可決ス
・大正四年二月十五日、村山貯水池敷地買収価格ヲ発表ス
と事務は進められています。関係者はそれぞれの村の狭山丘陵の峰を境とした表と裏、加えて、広域で形成している組合村との関係に気を遣いながら直面する課題に対処することになりました。その労苦は思いやられます。
Item Relations
This item has no relations.
IIIF Manifest
Collection
Citation
“移転地住民大会,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1524.