古村の移転
タイトル (Title)
古村の移転
詳細 (Description)
大正4年(1915)、石川の谷(上貯水池)から移転が開始されました。全162戸、大半が丘陵の南側(表)に移りました。家財道具は丘陵の坂道を、喘ぎあえぎ、家族中で大八車の後を押して運びました。下りは逆に支えるのが大ごとで、屈強の若者が腰を痛めたそうです。何軒かは牛車で越したようですが、数は少なかったと伝えられます。「おしんぼう」という賃稼ぎも生まれました。
貯水池に沈んだ旧村は消滅し、移転者は僅かな戸数が南麓の集落に混住し、多くが既存の集落より南側のはずれ、畑の中に新居地を設けました。
1住み慣れた場所からの移転
移転の時期は水道工事日誌が次のように記します。
「大正四年六月十五日、村山貯水池敷地内ニ存在スル移転物件ニ対シテ支払フベキ移転料金額ヲ市参事会ニ諮問セシニ市参事会バ之ニ同意セリ、移転物件及移転料金額ハ左ノ如シ、
一、移転物件数 三八七件(一人の所有物件ヲ一括シテ一件トス)
一、移転料金額 一五万九一八四円五四銭
一、期 間 大正四年七月ヨリ大正五年三月迄」
この記録から、大正4年(1915)7月、用地買収の承諾と共に移転が開始されたことがわかります。
移転の戸数は内堀小十郎氏(161戸 記憶)、星野晴一氏(160戸 昭和38年・1963)、郷土史研究会「道の会」(162戸 昭和50年代)の3者の調査があります。総数において差がありますが、「道の会」が行った関係台帳による調査によって確定とされています。
2当事者の心情
当事者の心の揺れが詳細に記されているのが、内堀小十郎氏の『湖底に沈んだふるさと』(昭和44年・1969)です。
「土地の買収その他の事件もほぼ完了したので、次は自分の行くべき第二の故郷をさがすのに、また一苦労した。もとより一ヵ所に集団移転するのが本意なれども、色々個人の事情や、意見も出て、なかなか思うようにならず、各所で「トラブル」も起こったようだ。
いずれにせよ、早く候補地を求めなげればならないので、内堀部落では私共の親戚知己の同志が相談して、距離的に見て一番近い奈良橋の土地を予定地として買った。これはあぐまでも内密である。
行政区画面では、狭山の領分(本家、本村)になっているから、当然狭山に移転するものと、村人は思っていたのだろう(どこに行くのも自由だが、当時はまだこうした慣例が残っていた)。ところが奈良橋の土地を買ったものだから、部落の一部から、非常にきびしい非難が出て一時当惑した。
そこで窮余の一策として、「これは移転地として買ったのではない、農耕地に使用するのだ」とその場限りの苦しい云いのがれをしたこともあった。人の噂も七十五日とやらで、いつしかその話も立消えとなり、各部落共おおむね自分の本村に移転している。
ただ、あの住みよい環境の中で苦楽を共にした者が、一ヵ所に移転できなかったことは、返すがえすも残念であった。各部落の移転先は次のとおりである。(別に表にまとめる)
長年住みなれた故郷をあとに、行先は皆ばらばらで一抹の淋しさを感じた。 移転は、大正四年春頃からはじまり、翌年の暮までにはほとんど終わったようである。」(『湖底に沈んだふるさと』p11~13)
3移転した先
移転前の集落の戸数と移転先の村の戸数は次の通りです。大まかな様子を模式的に図としました。161戸の内142戸が東大和市内へ、19戸が東大和市外に移転しています。当時の清水村41戸、狭山村34戸 奈良橋村20戸 蔵敷村3戸 芋窪村44戸です。
4移転場の様子
移転した先については、多くが、温かく迎えてくれたと話されます。人間関係もあり、なかなか本音は聞き取れませんでしたが、内堀小十郎氏は先に紹介したように、また、星野晴一氏は『大和町史研究8』に次のように記しています。
「総体的にみて夫々の移転先をおなじ部落内(当時は村うち)に求めることができたことは、事情が許したにせよ倖いであつたと思われる。移転者の殆んどが農家であるため、農地を求めるのに困難したようである。同時に折角移転するなら隣近所なるべくおなじところへ、或は気の合つた同志等々、村のおもだつた人々も買収価格を引き上げさせるための交渉の相談がはじまつていらいなるべく、共同体で動き、移転もそうすべく効力を払つたとのことであるが、なかなか結束できなかつたようである。(p65)
又新地に早く土地を求められた者は、買収価格とほぼ同じ畑一反歩二〇〇円、山林二五〇円泣で買えたが、徐々に当時の景気も上昇し、多少の土地ブームも手伝つて、やがては畑の揚合二七〇円から三五〇円位にまではねあがつたという。(約一年半位の間に)。
貯水池に沈んだ旧村は消滅し、移転者は僅かな戸数が南麓の集落に混住し、多くが既存の集落より南側のはずれ、畑の中に新居地を設けました。
1住み慣れた場所からの移転
移転の時期は水道工事日誌が次のように記します。
「大正四年六月十五日、村山貯水池敷地内ニ存在スル移転物件ニ対シテ支払フベキ移転料金額ヲ市参事会ニ諮問セシニ市参事会バ之ニ同意セリ、移転物件及移転料金額ハ左ノ如シ、
一、移転物件数 三八七件(一人の所有物件ヲ一括シテ一件トス)
一、移転料金額 一五万九一八四円五四銭
一、期 間 大正四年七月ヨリ大正五年三月迄」
この記録から、大正4年(1915)7月、用地買収の承諾と共に移転が開始されたことがわかります。
移転の戸数は内堀小十郎氏(161戸 記憶)、星野晴一氏(160戸 昭和38年・1963)、郷土史研究会「道の会」(162戸 昭和50年代)の3者の調査があります。総数において差がありますが、「道の会」が行った関係台帳による調査によって確定とされています。
2当事者の心情
当事者の心の揺れが詳細に記されているのが、内堀小十郎氏の『湖底に沈んだふるさと』(昭和44年・1969)です。
「土地の買収その他の事件もほぼ完了したので、次は自分の行くべき第二の故郷をさがすのに、また一苦労した。もとより一ヵ所に集団移転するのが本意なれども、色々個人の事情や、意見も出て、なかなか思うようにならず、各所で「トラブル」も起こったようだ。
いずれにせよ、早く候補地を求めなげればならないので、内堀部落では私共の親戚知己の同志が相談して、距離的に見て一番近い奈良橋の土地を予定地として買った。これはあぐまでも内密である。
行政区画面では、狭山の領分(本家、本村)になっているから、当然狭山に移転するものと、村人は思っていたのだろう(どこに行くのも自由だが、当時はまだこうした慣例が残っていた)。ところが奈良橋の土地を買ったものだから、部落の一部から、非常にきびしい非難が出て一時当惑した。
そこで窮余の一策として、「これは移転地として買ったのではない、農耕地に使用するのだ」とその場限りの苦しい云いのがれをしたこともあった。人の噂も七十五日とやらで、いつしかその話も立消えとなり、各部落共おおむね自分の本村に移転している。
ただ、あの住みよい環境の中で苦楽を共にした者が、一ヵ所に移転できなかったことは、返すがえすも残念であった。各部落の移転先は次のとおりである。(別に表にまとめる)
長年住みなれた故郷をあとに、行先は皆ばらばらで一抹の淋しさを感じた。 移転は、大正四年春頃からはじまり、翌年の暮までにはほとんど終わったようである。」(『湖底に沈んだふるさと』p11~13)
3移転した先
移転前の集落の戸数と移転先の村の戸数は次の通りです。大まかな様子を模式的に図としました。161戸の内142戸が東大和市内へ、19戸が東大和市外に移転しています。当時の清水村41戸、狭山村34戸 奈良橋村20戸 蔵敷村3戸 芋窪村44戸です。
4移転場の様子
移転した先については、多くが、温かく迎えてくれたと話されます。人間関係もあり、なかなか本音は聞き取れませんでしたが、内堀小十郎氏は先に紹介したように、また、星野晴一氏は『大和町史研究8』に次のように記しています。
「総体的にみて夫々の移転先をおなじ部落内(当時は村うち)に求めることができたことは、事情が許したにせよ倖いであつたと思われる。移転者の殆んどが農家であるため、農地を求めるのに困難したようである。同時に折角移転するなら隣近所なるべくおなじところへ、或は気の合つた同志等々、村のおもだつた人々も買収価格を引き上げさせるための交渉の相談がはじまつていらいなるべく、共同体で動き、移転もそうすべく効力を払つたとのことであるが、なかなか結束できなかつたようである。(p65)
又新地に早く土地を求められた者は、買収価格とほぼ同じ畑一反歩二〇〇円、山林二五〇円泣で買えたが、徐々に当時の景気も上昇し、多少の土地ブームも手伝つて、やがては畑の揚合二七〇円から三五〇円位にまではねあがつたという。(約一年半位の間に)。
Item Relations
This item has no relations.
IIIF Manifest
Collection
Citation
“古村の移転,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1529.