建設工事
タイトル (Title)
建設工事
詳細 (Description)
村山貯水池の建設工事は大事業でした。大まかに次のような経過を辿っています。
大正4年(1915)、移転がほぼ終わります。待っていたかのように、大正5年(1916)、工事の起工が行われます。完成予定は3年後の大正8年度(1919)でした。
・工事の起工 大正5年(1916)5月6月4日
・工事の完成 昭和3年(1928)3月31日
途中、第1次世界大戦の影響を受けたり、財政圧迫、材料高騰、労力の逼迫など幾多の経過を辿りました。そのため当初の完成予定(大正8年度)には収まらず工期変更を余儀なくされました。結果として、大幅に遅れ、昭和3年(1928)、実質12年間を要して、完成しました。
1工事の起工
・大正5年1月14日、村山貯水池一部起工案を東京市参事会に諮問 1月18日、同意
・大正5年6月4日、東村山村回田(村山貯水池敷地内)で地鎮祭が行われました。
2本のアーチに飾られ、多数の来賓が出席している当日の写真が伝えられます。
・反対をし、移転を強いられた村人たちは、「雨が降っただ・・・」といい
・一方、『工事報告書』は起工式の状況を次のように書き残しています。
「水道拡張工事ノ事務、漸次進捗シテ村山貯水池ノ一部ノ工事ヲ施行スルコトニナリタレハ、大正五年六月四日正午、北多摩郡東村村字回田(村山貯水池敷地内)ニ於テ地鎮祭ヲ挙行ス。
此ノ日会スル者約三百名、式次ニ従ツテ斉主祝詞ヲ奏上シ市長(略)・・・東村山村長当麻貴重、高木村外五ケ村組合村長尾又高次郎ノ諸氏玉串ヲ捧ケテ拝礼シ午後一時、祭式ヲ終ル、次イテ食堂ヲ開キ奥田市長挨拶、来賓総代肝付男爵ノ祝詞等アリテ頗ル盛会ナリキ」とあります。
2工事の内容
村山貯水池の工事内容は大まかに3つに分かれます。
・二つの導水路
・村山貯水池本体
の工事です。大正5年(1916)7月、内閣の認可を得た設計変更後の内容は次の通りです。東京都水道史から引用します。
①羽村村山線
多摩川沿岸西多摩村字羽(通称羽村)に取入口を設け、開渠、隧道及び暗渠等にて西多摩郡西多摩、福生、石畑、殿ケ谷、北多摩郡岸、三ツ木、中藤、芋窪等の諸村を経て村山貯水池に至る導水渠を羽村村山線と称す。
水路勾配開渠は1/1,000燧道及び暗渠は1/500とし水深前者は4尺、後者は10尺、水量毎秒600立方尺とす。而して将来給水量の不足を来せる際は多摩川支流秋川の水を導引し羽村にて本水渠に合流せしむるものとす。(注 当初は「埼玉県名栗川ノ水ヲ導水シ」の文言があった。
②村山貯水池
導水路、堰堤、取水塔、余水吐などに分かれます。
北多摩郡の西北隅埼玉県に隣接し高さ100尺を下らざる丘陵を以て囲まれたる狭長なる窪地を利用し芋窪村字下石川地先及び清水村字境前地先に各土堰堤を築き貯水池を設け多摩川の水を導き貯溜するものとし地形上一を上貯水池、一を下貯水池と名く。
③村山境線(一部が多摩湖自転車道になっている)
村山貯水池より隧道、暗渠等にて北多摩郡清水、狭山、東村山、小平、田無、保谷、武蔵野諸村を経て境浄水場に至る導水渠を村山境線と称す。水路勾配は地形に応じ1/1,000叉は1/1,200とし水量毎秒250立方尺なり。
本線路の総延長は約6,190間にして内訳次の如し。
隧 道 217間 暗渠5,908間5分
余水吐 26間 急下水路38間5分
3工事の流れ
工事の概要については、東京都水道局「村山貯水池の概要と歴史」によってよくわかります。
下貯水池堰堤の広場に掲示されています。
長期に亘った工事ですが、東京都水道史は次のようにまとめています。
①羽村村山線 大正7年8月起工 同13年10月竣工
②村山上貯水池 大正5年5月起工 同13年3月竣工 下貯水池、昭和2年竣工 昭和3年完成
③村山境線 大正6年1月起工 同13年3月竣工 (p187~190)
さすがに、この間には様々な事が起こりました。
◎大正3年(1914)第一次世界大戦が開戦します。この影響をまともに受けました。物価や労賃が急騰し、当初計画では工事が進行できなくなりました。大正9年12月、東京市は計画を二期に変更します。
・第一期、大正2年度から12年度の11年度
羽村・村山線の工事、村山上貯水池、村山・境線、境浄水場などの工事
・第二期は大正13年度(1924)から17年度
村山下貯水池など第一期の残部工事
◎次は、大正12年9月、関東大震災に遭遇します。東京市は、第一期の工事を一か年延長することにして、工事を継続しました。その結果が上記の①②③です。
村山上貯水池の完成
大正13年3月、村山上貯水池は完成し、3月30日、東村山停車場前で通水式が挙行されました。
アーチが立てられ、テント張りの式場が設けられ、張り舞台では囃子連が賑やかに演じたとされます。
村山下貯水池の完成
関東大震災で遅れた下貯水池も「帝都復興事業」として促進され、下堰堤は、大正13年(1924)5月31日、竣工しました。その他の付帯工事も含め、昭和2年(1927)3月31日、完成しました。
その他残された工事、残務整理を処理し、村山貯水池全体は昭和3年(1928)3月31日完了しました。
工事の評価
村山貯水池の工事について、東京都水道史は次のように記しています。
「村山貯水池の底部は全部粘土岩盤であつて、天与の良好な基礎を形成しているが、ここに築造される土堰堤ははなはた高く、その類例も多くないので、もつとも周密の注意をはらつて誠実に施工することを要するので、すべて直営主義によつた。
またこの工事は彩多の労力を要するものであるから、つねに意を労力需給にそそぎ、この地方の農民を使役することが良策であると信じたので、つねに農事の繁閑を念頭におき、これに順応して工事実施の計画をたてた。(中略)
このようにして着々その工事を進め、大正12年6月に至り、上貯水池の主要工事は竣工したので、原水を導き入れて貯溜し、同年9月1日の関東震災当時はすでに深さ51尺に達する水を貯溜したが、激震が突発するや、丈余の水柱を捲き起し、予期しない衝撃を受けたが、堰堤の被害がきわめて軽微であった事実はその築造方法において大きな成功をおさめ得たことを証明すると言えよう。
また下堰堤は震災後復興事業中にこれを繰り入れ、第1期工事の終了をまたずして相並行してこれを速成することとなつた。」(p191~192)
こうして誰にも親しまれる美しい湖水が生まれました。
大正4年(1915)、移転がほぼ終わります。待っていたかのように、大正5年(1916)、工事の起工が行われます。完成予定は3年後の大正8年度(1919)でした。
・工事の起工 大正5年(1916)5月6月4日
・工事の完成 昭和3年(1928)3月31日
途中、第1次世界大戦の影響を受けたり、財政圧迫、材料高騰、労力の逼迫など幾多の経過を辿りました。そのため当初の完成予定(大正8年度)には収まらず工期変更を余儀なくされました。結果として、大幅に遅れ、昭和3年(1928)、実質12年間を要して、完成しました。
1工事の起工
・大正5年1月14日、村山貯水池一部起工案を東京市参事会に諮問 1月18日、同意
・大正5年6月4日、東村山村回田(村山貯水池敷地内)で地鎮祭が行われました。
2本のアーチに飾られ、多数の来賓が出席している当日の写真が伝えられます。
・反対をし、移転を強いられた村人たちは、「雨が降っただ・・・」といい
・一方、『工事報告書』は起工式の状況を次のように書き残しています。
「水道拡張工事ノ事務、漸次進捗シテ村山貯水池ノ一部ノ工事ヲ施行スルコトニナリタレハ、大正五年六月四日正午、北多摩郡東村村字回田(村山貯水池敷地内)ニ於テ地鎮祭ヲ挙行ス。
此ノ日会スル者約三百名、式次ニ従ツテ斉主祝詞ヲ奏上シ市長(略)・・・東村山村長当麻貴重、高木村外五ケ村組合村長尾又高次郎ノ諸氏玉串ヲ捧ケテ拝礼シ午後一時、祭式ヲ終ル、次イテ食堂ヲ開キ奥田市長挨拶、来賓総代肝付男爵ノ祝詞等アリテ頗ル盛会ナリキ」とあります。
2工事の内容
村山貯水池の工事内容は大まかに3つに分かれます。
・二つの導水路
・村山貯水池本体
の工事です。大正5年(1916)7月、内閣の認可を得た設計変更後の内容は次の通りです。東京都水道史から引用します。
①羽村村山線
多摩川沿岸西多摩村字羽(通称羽村)に取入口を設け、開渠、隧道及び暗渠等にて西多摩郡西多摩、福生、石畑、殿ケ谷、北多摩郡岸、三ツ木、中藤、芋窪等の諸村を経て村山貯水池に至る導水渠を羽村村山線と称す。
水路勾配開渠は1/1,000燧道及び暗渠は1/500とし水深前者は4尺、後者は10尺、水量毎秒600立方尺とす。而して将来給水量の不足を来せる際は多摩川支流秋川の水を導引し羽村にて本水渠に合流せしむるものとす。(注 当初は「埼玉県名栗川ノ水ヲ導水シ」の文言があった。
②村山貯水池
導水路、堰堤、取水塔、余水吐などに分かれます。
北多摩郡の西北隅埼玉県に隣接し高さ100尺を下らざる丘陵を以て囲まれたる狭長なる窪地を利用し芋窪村字下石川地先及び清水村字境前地先に各土堰堤を築き貯水池を設け多摩川の水を導き貯溜するものとし地形上一を上貯水池、一を下貯水池と名く。
③村山境線(一部が多摩湖自転車道になっている)
村山貯水池より隧道、暗渠等にて北多摩郡清水、狭山、東村山、小平、田無、保谷、武蔵野諸村を経て境浄水場に至る導水渠を村山境線と称す。水路勾配は地形に応じ1/1,000叉は1/1,200とし水量毎秒250立方尺なり。
本線路の総延長は約6,190間にして内訳次の如し。
隧 道 217間 暗渠5,908間5分
余水吐 26間 急下水路38間5分
3工事の流れ
工事の概要については、東京都水道局「村山貯水池の概要と歴史」によってよくわかります。
下貯水池堰堤の広場に掲示されています。
長期に亘った工事ですが、東京都水道史は次のようにまとめています。
①羽村村山線 大正7年8月起工 同13年10月竣工
②村山上貯水池 大正5年5月起工 同13年3月竣工 下貯水池、昭和2年竣工 昭和3年完成
③村山境線 大正6年1月起工 同13年3月竣工 (p187~190)
さすがに、この間には様々な事が起こりました。
◎大正3年(1914)第一次世界大戦が開戦します。この影響をまともに受けました。物価や労賃が急騰し、当初計画では工事が進行できなくなりました。大正9年12月、東京市は計画を二期に変更します。
・第一期、大正2年度から12年度の11年度
羽村・村山線の工事、村山上貯水池、村山・境線、境浄水場などの工事
・第二期は大正13年度(1924)から17年度
村山下貯水池など第一期の残部工事
◎次は、大正12年9月、関東大震災に遭遇します。東京市は、第一期の工事を一か年延長することにして、工事を継続しました。その結果が上記の①②③です。
村山上貯水池の完成
大正13年3月、村山上貯水池は完成し、3月30日、東村山停車場前で通水式が挙行されました。
アーチが立てられ、テント張りの式場が設けられ、張り舞台では囃子連が賑やかに演じたとされます。
村山下貯水池の完成
関東大震災で遅れた下貯水池も「帝都復興事業」として促進され、下堰堤は、大正13年(1924)5月31日、竣工しました。その他の付帯工事も含め、昭和2年(1927)3月31日、完成しました。
その他残された工事、残務整理を処理し、村山貯水池全体は昭和3年(1928)3月31日完了しました。
工事の評価
村山貯水池の工事について、東京都水道史は次のように記しています。
「村山貯水池の底部は全部粘土岩盤であつて、天与の良好な基礎を形成しているが、ここに築造される土堰堤ははなはた高く、その類例も多くないので、もつとも周密の注意をはらつて誠実に施工することを要するので、すべて直営主義によつた。
またこの工事は彩多の労力を要するものであるから、つねに意を労力需給にそそぎ、この地方の農民を使役することが良策であると信じたので、つねに農事の繁閑を念頭におき、これに順応して工事実施の計画をたてた。(中略)
このようにして着々その工事を進め、大正12年6月に至り、上貯水池の主要工事は竣工したので、原水を導き入れて貯溜し、同年9月1日の関東震災当時はすでに深さ51尺に達する水を貯溜したが、激震が突発するや、丈余の水柱を捲き起し、予期しない衝撃を受けたが、堰堤の被害がきわめて軽微であった事実はその築造方法において大きな成功をおさめ得たことを証明すると言えよう。
また下堰堤は震災後復興事業中にこれを繰り入れ、第1期工事の終了をまたずして相並行してこれを速成することとなつた。」(p191~192)
こうして誰にも親しまれる美しい湖水が生まれました。
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“建設工事,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年10月15日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1530.