アメリカ軍の空爆により工場壊滅

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タイトル (Title)

アメリカ軍の空爆により工場壊滅

詳細 (Description)

 軍需により拡張を続ける日立航空機(株)立川発動機製作所(以下立川工場)は昭和20年(1945)、米軍の空爆を受けました。工場群は完全に破壊されました。その経過は次の通りです。(米軍による爆撃、工場の壊滅状況などは『東大和市史資料編1』に記録されています)

昭和20年(1945)
・1月19日、政府は「空襲対策緊急強化要綱」を閣議決定、建物疎開を強化(多摩のあゆみ91p49)
◎日立航空機(株)立川工場疎開開始
・2月16日、17日、立川や多摩飛行場が艦載機により空襲(武蔵村山市史下p471)
◎2月17日午前7時、警戒警報
 午前10時20分、60機編隊、立川飛行機(株)砂川工場を銃撃
 午前10時20分~30分、30機編隊、日立航空機立川工場爆撃と機銃掃射
 以上は東京大空襲・戦災誌による 死者約78名。

 なんとこの時のこの時の大本営発表は米軍の爆撃機を撃墜したことになっています。
 一九四五年(昭和二十)二月十八日の朝日新聞記事です。

 大本営発表
 一、敵艦載機は本二月十七日七時頃より、関東地方及び静岡県下に来襲せり
 二、本土来襲の敵機動部隊に対する昨十七日の邀撃(ようげき)戦果 
   現在までに確認せるもの次の如し、
   一四七機撃墜。我方自爆未帰還計六一機。地上における損害は僅少なり(東大和市史p345)

◎村山貯水池の高射砲が撃ち、1機に命中、パイロットがパラシュートで脱出
・3月10日、東京大空襲
・3月、国民義勇隊の結成 本土決戦に備えて国民を防衛戦に動員
・4月2日、村山村、B29爆撃機50機による空襲、長円寺に爆弾が落ちる
・4月4日、村山村、B29爆撃機による空襲 長円寺に爆弾、真福寺に時限爆弾が落ちる
      村山貯水池に午前3時頃、焼夷弾と250キロ爆弾 50発投下される
・4月7日、第一回目、松根油取り出し
・4月12日、貯水池水路に1トン爆弾投下される
・4月14日、15日、東京が大規模焼夷弾爆撃を受ける(多摩のあゆみ91p49)

◎4月19日、P51戦闘機50機、B29を3機同伴 
 日立航空機立川工場にはP51戦闘機が機銃掃射 死者6名
◎4月24日、午前7時30分警戒警報 
 同B29(101機)によって日立航空機立川工場が爆撃を受けた。(アメリカ合衆国戦略爆撃調査)
 工場壊滅状況。27名が死亡 
 大和国民学校に負傷者収容(武蔵村山市史下p473)
・5月24日、25日、東京が大規模焼夷弾爆撃を受ける(多摩のあゆみ91p49)
・5月25日、P51が下貯水池と山口貯水池の取水塔めがけて爆撃(東大和市史p88)
・6月10日、午前8時~9時 B29が高射砲陣地と電波探知機帯を狙って300発位投下(東大和市史p88)
・6月11日、取水塔めがけて投下(東大和市史p88)
・6月、日立航空機立川工場の疎開工場として、横田のトンネル使用のため、疎開を開始、
   8月に完了。8月15日終戦のため、ほとんど稼働しなかった。
・8月1日~2日、八王子大空襲(多摩のあゆみ91p50)
・8月15日、正午、昭和天皇のラジオ放送で、降伏発表。
 アメリカ、イギリス、中国のポツダム宣言により無条件降伏

 以上の3回の爆撃を受けて、日立航空機立川工場は壊滅状況になりました。操業は不能となりました。
(1)『東大和市史資料編1』p80以下
(2)郷土博物館や変電所の公開日に所内に展示されている画像
(3)『戦災変電所の奇跡』(東大和・戦災変電所を保存する会」)
 2017年4月1日発刊、空爆の背景、空爆機など新たな動向を具体的に知ることが出来ます。
(4)『小松ゼノア社報第129号』(東大和市立中央図書館に保存)
 35ページには、工場に落とされた爆弾の状況を伝える貴重な資料「米国戦略爆撃調査団による爆撃跡図」が掲載されています。
 なお、この爆撃の際、米軍機が撃墜されました。その際、米軍兵士がパラシュートで脱出し、現・桜街道の上をパラシュートが下降してきました。その時の状況を『東大和市史資料編』1は次のように伝えます。
 「このパラシュートを宮寺春吉さんも見ていた。江戸街道の桜並木の上空と思われる方向に、敵のパイロットのバラシュートが開きゆっくり下降していくのを確認した。その次の瞬間敵愾心(てきがいしん)がむらむらと湧き起っていたので、銃口を”さっと’バラシュートに向けた。「撃つな」と間髪を入れず、誰かが浴びせかけるように怒鳴った。
 四十年以上経過した今も「撃つな」の声は耳の奥に残り、白くく開いたパラシュートは脳裏に浮んでくる、と語ってくれた。」(p74)
変電所跡
 爆撃の跡は現在ただ一つ、東京都立東大和南公園内に当時の「変電所」が残されています。公園設置の際、取り壊される気配も生じました。貴重な戦争遺跡として市民の保存運動が高まり、幾多の経過を経て残されました。「旧日立航空機株式会社変電所」として市史跡に指定されています。
戦災犠牲者慰霊碑
 変電所跡東側に旧日立航空機株式会社立川工場の戦災犠牲者慰霊碑があります。一時は従業員総数13000人を超える軍需工場でした。そのため、米軍機の爆撃によって亡くなられた方々の慰霊碑です。碑文には、次のように記されています。
 「日立航空機株式会社立川発動機製作所は太平洋戦争中陸軍専管航空発動機生産工場として時局の要請にこたえていた。
 昭和20年2月17日、4月19日、4月24日と相次いで米軍機の空襲をうけ左記110名の尊い犠牲者を出し工場は廃墟と化したよってここにこれらの霊を慰めるため碑を建てるものである。」
 職種別犠牲者 学徒14、社員16、工員67、第六中隊1、外部社業員1、守衛4、家族8名  合計111名
殉国産業戦士供養塔
 少し離れていますが、円乗院境内(狭山)に「殉国産業戦士供養塔」があります。現在のグリーンタウンの地にあった日本繊維化工(株)の工場建設の時に地中から発見された砲弾の破片や破裂した鉄片から、日本繊維化工(株)がこの地での死傷者を供養した塔です。

Item Relations

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Citation

“アメリカ軍の空爆により工場壊滅,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1543.