豊鹿島神社本殿の棟札1 文正元年(1466)
タイトル (Title)
豊鹿島神社本殿の棟札1 文正元年(1466)
詳細 (Description)
文正元年(1466)
かしま様・豊鹿島神社は東大和市の歴史の宝庫です。平成5年(1993)に改修した時、本殿から多くさんの棟札(むなふだ)が発見されました。現在の本殿の創建を伝え、その後の改修の状況を明らかにします。
『豊鹿島神社本殿修理工事報告書』と神社発行のパンフレットから引用します。
1棟札発見の状況
・文正元(1466)年(棟木下端に和釘止め)
・天正四(1576)年(東側扠首束(さすづか)に和釘止め)
・慶長六(1601)年(西側扠首束(さすづか)に和釘止め)
・正保三(1646)年(背面地垂木に和釘止め)
これらの棟札の発見により、これまで話題に上がらなかった中世多摩郡の郷(ごう)に「奈良橋郷」があったことが明らかになりました。さらに課題はこの棟札に表記された人名と歴史です。残念ですが、ほとんど未解明です。これらの解明が進めば一気に東大和市の中世の謎が解けます。奈良橋郷と隣接する宅部郷(やけべごう)、村山郷の関係も未解明です。
注
(2)『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』は、「天文三年」の棟札について紹介しています。しかし、本殿改修時には発見されませんでした。そして、天文三年と伝えられる棟札が、いつの頃からか神官宅に保管されていました。神官宅保管棟札を分析の結果、天文十九年(1550)の年号の書き写し違いとされました。
それぞれの棟札と当時の歴史的な背景を辿ります。
(1)文正元年(1466)棟札について
表
武州多東郡上奈良橋郷 本大旦那源朝臣憲光(みなもとののりみつ)
奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事
当別当梅満命姉 大工二郎三郎近吉
裏 文正元年(1466)十月三日 筆者権律師□儀(花押)
創建棟札の表には、神社の所在地が「上奈良橋郷」にあり、神社を創建した大旦那として「源朝臣憲光」の名が書かれています。また、神社を管理した別当として「梅満」、建設に当たった大工に「二郎三郎近吉」の名があります。
裏側には権律師の「□儀」が棟札を書いたと署名しています。
これらについて、一つ一つ解明してゆきたいと思います。しかし、現時点では、神社を管理した別当「梅満」が現在の神官の祖先に当たること以外には不明です。とても残念です。ここでは、創建時の時代背景について記します。
創建の時は戦乱の真っ最中
豊鹿島神社の現本殿が建てられた頃、武蔵は戦乱の真っ最中でした。建設が終わった翌年の応仁元年には、応仁・文明の乱が勃発して戦国時代に入ります。
当時の東大和市周辺の勢力図です。
豊鹿島神社現本殿創建の前後を年表で整理します。
1454(享徳 3)年
・5月1日、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲忠の命により、大石重仲が下野国鑁阿寺(ばんなじ)への寄進を執行する。
・12月27日、足利成氏、関東管領上杉憲忠を鎌倉の邸宅に襲って殺害、 上杉氏との戦いを開始=享徳の乱
(文明14年・1482まで約30年間続く)
◎上杉氏は幕府から関東管領に任命され、幕府も上杉方を支持した。
・上杉の中心は扇谷上杉持朝、太田道真、長尾景仲であった。
1455(康正元)年(享徳4年)
・1月5日、足利成氏が武蔵府中高安寺に陣。
扇谷上杉顕房(あきふさ)、犬懸上杉憲顕(のりあき)、長尾景仲、武州・上州一揆が上野・武蔵の軍を率いて南下。
・1月21日~22日、高幡、立河、分倍河原で激闘。
・上杉方敗走、顕房は夜瀬(入間市か?)で打ち取られ、憲顕は負傷して高幡不動で自害。
長尾景仲は常陸まで退却。
◎憲顕(禅秀の息子)の墓と伝えられる巨石が高幡不動尊の境内にまつられている。
◎大石氏当主房重、駿河守重仲戦死(飯能市・宝蔵寺に位牌有り。町田市勝楽寺阿弥陀如来胎内銘に名有り)
◎足利成氏(あしかがしげうじ)、敗走した長尾景仲らを追って北上。
3月、下総古河(古河市)に入り、ここを本拠として古河公方(こがくぼう)と呼ばれる。
・5月14日、上杉氏が武蔵大袋(おおぶくろ・川越市)で足利成氏と戦う。
1457(長禄元)年
・4月、河越城、江戸城、岩付城完成
河越城=上杉持朝、江戸城=太田資長=道灌(どうかん)26才、岩付城=太田道真(道灌の父)
・12月 上杉方、将軍義教の子・政知を迎え公方とする。
政知は鎌倉に入らず、伊豆の堀越に居を構える。堀越公方(ほりこしくぼう)と呼ばれる。
1458(長禄 2)年
・大石顕重、高月城に移る。古甲州道の渡河地点にある根小屋城もこのころ強化された。
1466(文正元)年
・2月、上杉房顕(ふさあき)の軍勢、成氏の軍勢と武蔵五十子(いかっこ・埼玉県本庄市)において対陣する。
上杉房顕、五十子で死去、上杉房定の子龍若(たつわか=顕定)山内上杉氏の家督を継ぐ。
・7月、斯波氏(しばし)家督争いに将軍義政が介入、斯波義敏と義廉が対立、義廉廃され、義敏が家督を継ぐ。
・将軍義政が義視(よしみ)暗殺を謀る(文正の政変)
・10月3日、豊鹿島神社創建
1467(応仁元)年
・1月、畠山義就(よしひろ・よしなり)と政長の対立が激化、上御霊社の戦い(応仁・文明の乱勃発→戦国時代)
1478(文明10)年
・二宮城の大石駿河守が太田道灌から攻撃を受ける
戦乱の時、誰がどのようにして創建した?
このように、豊鹿島神社の現本殿が創建されたときは室町幕府創設から130年近くを経過して、
・将軍と公方
・公方と関東管領
の間に争いが生じ、さらに関東管領の家柄である
・上杉氏の間(山内・扇谷)で
争いが起きるという、三つどもえの戦乱の時でした。このような状況の中で、本殿を創建した「源朝臣憲光」とは、どこに本拠を構え、どんな人なのでしょうか?
いろいろ手を尽くしていますがわかりません。お気づきの方、是非教えて頂きたくお願い致します。
残念ですが、大工の「二郎三郎近吉」についても不明です。
幸いなことに、別当「梅満」については、現神主・石井家の先祖とされています。
地元に居ると、豊鹿島神社の慶雲4年(707)の創建伝承「ご陣場で鬼神を鎮めたまう」が、中世の戦乱の中、武運を祈る本殿創建に生きて繋がる感じがします。
かしま様・豊鹿島神社は東大和市の歴史の宝庫です。平成5年(1993)に改修した時、本殿から多くさんの棟札(むなふだ)が発見されました。現在の本殿の創建を伝え、その後の改修の状況を明らかにします。
『豊鹿島神社本殿修理工事報告書』と神社発行のパンフレットから引用します。
1棟札発見の状況
・文正元(1466)年(棟木下端に和釘止め)
・天正四(1576)年(東側扠首束(さすづか)に和釘止め)
・慶長六(1601)年(西側扠首束(さすづか)に和釘止め)
・正保三(1646)年(背面地垂木に和釘止め)
これらの棟札の発見により、これまで話題に上がらなかった中世多摩郡の郷(ごう)に「奈良橋郷」があったことが明らかになりました。さらに課題はこの棟札に表記された人名と歴史です。残念ですが、ほとんど未解明です。これらの解明が進めば一気に東大和市の中世の謎が解けます。奈良橋郷と隣接する宅部郷(やけべごう)、村山郷の関係も未解明です。
注
(2)『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』は、「天文三年」の棟札について紹介しています。しかし、本殿改修時には発見されませんでした。そして、天文三年と伝えられる棟札が、いつの頃からか神官宅に保管されていました。神官宅保管棟札を分析の結果、天文十九年(1550)の年号の書き写し違いとされました。
それぞれの棟札と当時の歴史的な背景を辿ります。
(1)文正元年(1466)棟札について
表
武州多東郡上奈良橋郷 本大旦那源朝臣憲光(みなもとののりみつ)
奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事
当別当梅満命姉 大工二郎三郎近吉
裏 文正元年(1466)十月三日 筆者権律師□儀(花押)
創建棟札の表には、神社の所在地が「上奈良橋郷」にあり、神社を創建した大旦那として「源朝臣憲光」の名が書かれています。また、神社を管理した別当として「梅満」、建設に当たった大工に「二郎三郎近吉」の名があります。
裏側には権律師の「□儀」が棟札を書いたと署名しています。
これらについて、一つ一つ解明してゆきたいと思います。しかし、現時点では、神社を管理した別当「梅満」が現在の神官の祖先に当たること以外には不明です。とても残念です。ここでは、創建時の時代背景について記します。
創建の時は戦乱の真っ最中
豊鹿島神社の現本殿が建てられた頃、武蔵は戦乱の真っ最中でした。建設が終わった翌年の応仁元年には、応仁・文明の乱が勃発して戦国時代に入ります。
当時の東大和市周辺の勢力図です。
豊鹿島神社現本殿創建の前後を年表で整理します。
1454(享徳 3)年
・5月1日、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲忠の命により、大石重仲が下野国鑁阿寺(ばんなじ)への寄進を執行する。
・12月27日、足利成氏、関東管領上杉憲忠を鎌倉の邸宅に襲って殺害、 上杉氏との戦いを開始=享徳の乱
(文明14年・1482まで約30年間続く)
◎上杉氏は幕府から関東管領に任命され、幕府も上杉方を支持した。
・上杉の中心は扇谷上杉持朝、太田道真、長尾景仲であった。
1455(康正元)年(享徳4年)
・1月5日、足利成氏が武蔵府中高安寺に陣。
扇谷上杉顕房(あきふさ)、犬懸上杉憲顕(のりあき)、長尾景仲、武州・上州一揆が上野・武蔵の軍を率いて南下。
・1月21日~22日、高幡、立河、分倍河原で激闘。
・上杉方敗走、顕房は夜瀬(入間市か?)で打ち取られ、憲顕は負傷して高幡不動で自害。
長尾景仲は常陸まで退却。
◎憲顕(禅秀の息子)の墓と伝えられる巨石が高幡不動尊の境内にまつられている。
◎大石氏当主房重、駿河守重仲戦死(飯能市・宝蔵寺に位牌有り。町田市勝楽寺阿弥陀如来胎内銘に名有り)
◎足利成氏(あしかがしげうじ)、敗走した長尾景仲らを追って北上。
3月、下総古河(古河市)に入り、ここを本拠として古河公方(こがくぼう)と呼ばれる。
・5月14日、上杉氏が武蔵大袋(おおぶくろ・川越市)で足利成氏と戦う。
1457(長禄元)年
・4月、河越城、江戸城、岩付城完成
河越城=上杉持朝、江戸城=太田資長=道灌(どうかん)26才、岩付城=太田道真(道灌の父)
・12月 上杉方、将軍義教の子・政知を迎え公方とする。
政知は鎌倉に入らず、伊豆の堀越に居を構える。堀越公方(ほりこしくぼう)と呼ばれる。
1458(長禄 2)年
・大石顕重、高月城に移る。古甲州道の渡河地点にある根小屋城もこのころ強化された。
1466(文正元)年
・2月、上杉房顕(ふさあき)の軍勢、成氏の軍勢と武蔵五十子(いかっこ・埼玉県本庄市)において対陣する。
上杉房顕、五十子で死去、上杉房定の子龍若(たつわか=顕定)山内上杉氏の家督を継ぐ。
・7月、斯波氏(しばし)家督争いに将軍義政が介入、斯波義敏と義廉が対立、義廉廃され、義敏が家督を継ぐ。
・将軍義政が義視(よしみ)暗殺を謀る(文正の政変)
・10月3日、豊鹿島神社創建
1467(応仁元)年
・1月、畠山義就(よしひろ・よしなり)と政長の対立が激化、上御霊社の戦い(応仁・文明の乱勃発→戦国時代)
1478(文明10)年
・二宮城の大石駿河守が太田道灌から攻撃を受ける
戦乱の時、誰がどのようにして創建した?
このように、豊鹿島神社の現本殿が創建されたときは室町幕府創設から130年近くを経過して、
・将軍と公方
・公方と関東管領
の間に争いが生じ、さらに関東管領の家柄である
・上杉氏の間(山内・扇谷)で
争いが起きるという、三つどもえの戦乱の時でした。このような状況の中で、本殿を創建した「源朝臣憲光」とは、どこに本拠を構え、どんな人なのでしょうか?
いろいろ手を尽くしていますがわかりません。お気づきの方、是非教えて頂きたくお願い致します。
残念ですが、大工の「二郎三郎近吉」についても不明です。
幸いなことに、別当「梅満」については、現神主・石井家の先祖とされています。
地元に居ると、豊鹿島神社の慶雲4年(707)の創建伝承「ご陣場で鬼神を鎮めたまう」が、中世の戦乱の中、武運を祈る本殿創建に生きて繋がる感じがします。
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Collection
Citation
“豊鹿島神社本殿の棟札1 文正元年(1466),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1578.