豊鹿島神社本殿の棟札4 慶長六年(1601)
タイトル (Title)
豊鹿島神社本殿の棟札4 慶長六年(1601)
詳細 (Description)
慶長六年(1601)、正保三年(1646)
豊鹿島神社本殿の棟札の続きです。慶長六年(1601)、正保三年(1646)の二枚について記します。特色は、施主がはっきりして、徳川家康、家光の家臣で、芋窪村(いもくぼむら)をおさめる地頭が大旦那になっています。
・慶長六年(1601)は徳川家康の直属の家臣・酒井筑前守と同強蔵
・正保三年(1646)は三代将軍家光の家臣・酒井極之助
また、正保三年(1646)棟札では、大工がこれまで続いてきた地元の乙幡氏ではなく、現在の大阪府堺市の高橋氏に変わっています。どうしたことでしょうか?
(4)慶長六年(1601)棟札
表
武州多東郡奈良橋内芋窪 神主若満
鴨久兵衛 同□太ろう □野善□□
□□□□衛門 木村□左衛門
奉造立鹿嶋大明神社頭一宇之事
大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿
番匠大工乙幡正左衛門
慶長六年(1601)戌丑二月朔日施主敬白
裏
記入なし。
施主の酒井氏は徳川家から配属された地頭様
慶長6年(1601)の棟札に記される大旦那酒井氏は、東大和市域に最初に配属された徳川家康の直属の家臣です。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻撃により八王子城(6月23日)、小田原城(7月5日)が開城し、後北条氏の時代が終わりました。
同年7月13日、秀吉は論功行賞の一環として家康の関東移封を発表します。家康は三河に帰らず江戸に入ります。翌、天正19年(1591)5月、家康は江戸城、江戸市街の整備をする前に家臣団を関東に配属し、狭山丘陵周辺には直属の家臣を配置しました。
この時、東大和市域内で、芋窪村と高木村に配属されたのが酒井極之助実明でした。知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)は発見されていません。
他の資料から、芋窪村380石、高木村70石と村名と知行高が決められていたことがわかります。
酒井氏は江戸が未整備なため、地元に陣屋を構え家族とともに生活しました。当初は陣屋の建設も間に合わず、旧家を利用したとされます。地元では地頭と呼ばれ、地頭畑を耕し、年貢の賦課をしました。
江戸へは江戸街道(東大和市内ではおおむね現在の新青梅街道→東京街道団地北側→久米川→田無橋場)を馬で通勤登城しました。
そのような状況で、慶長6年(1601)、豊鹿島神社本殿が修復されました。注目は、その棟札に従来とは違って、
・大旦那の氏名に実存した地頭の名が書かれ、
・上奈良橋郷の記載がなくなり、「武州多東郡奈良橋内芋窪」と初めて芋窪村という村の存在が明らかになったことです。
この段階で、他の地域についても、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村(うしろがやむら)、清水村(しみずむら)の名称が現れてきます。後には宅部村(やけべむら)がつくられます。家康の家臣を配置するにあたり、租税対象を明確にする上からも、散在していた集落を一定の範囲で区切って村をつくる、いわゆる「村切り」が行われたものと推測します。
また、参鴨久兵衛(みかも) 同□太ろう □野善□□ □□□□衛門 木村□左衛門などの人名は芋窪村の村人達であり、この時期に、領主と村人が共同で豊鹿島神社本殿を修築したことが偲ばれます。
また、前年の慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の合戦が行われました。地頭の酒井氏も出陣し、その際、神主若満が同道したと伝えられます。
(5)正保三年(1646)棟札
本殿棟札として残る最後の棟札です。徳川家三代将軍家光の時代に改修されました。
表
天下大平国土安全 神主石井出羽守 三十二才也
大工 泉州玉鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正
奉造栄鹿嶋大神宮御宝殿 現世安穏如意満足処成就
正保三年(1646)丙戌歳六月良辰
天下者武州江戸三代□□家光の御代の比 大施主 酒井極之助重忠
裏
武州多麻府上奈良橋郷 神主若満(花押)
藤原朝臣□□吉次□住
天下太平、国土安全、現世安穏の祈願が成就したことを称え、地頭の酒井極之助が大施主になっています。
地頭の酒井氏は酒井兵左衛門実明(極之助)が初代で、近江国鎌波の城主土肥近江守実秀の子でした。落城後に家老の酒井姓を名のり甲斐国武田家に仕えました。武田家が没落したのちに家康に仕え、天正19年(1591)に、芋窪村380石、高木村70石、合計450石を拝領しています。今回紹介する正保3年(1646)の大施主である酒井極之助重忠はその一族です。
もう一つ注目されるのが、修理工事を担当した大工です。棟札に「大工 泉州玉(王)鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正」と記されます。現在の大阪府堺市と考えられます。『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に「大鳥郷」があり、「大鳥郡」→「堺市」と辿れます。
青梅市の住吉神社本殿の正徳6年(1716)棟札に「本国泉州住処武州江戸大工棟梁貝塚作右衛門奉入」と記されているようですが、豊鹿島神社本殿の場合「泉州玉(王)鳥之郷境の住人」となっています。このような遠方から、なぜ、芋窪まで大工さんが来たのか気になります。
豊鹿島神社本殿の棟札の続きです。慶長六年(1601)、正保三年(1646)の二枚について記します。特色は、施主がはっきりして、徳川家康、家光の家臣で、芋窪村(いもくぼむら)をおさめる地頭が大旦那になっています。
・慶長六年(1601)は徳川家康の直属の家臣・酒井筑前守と同強蔵
・正保三年(1646)は三代将軍家光の家臣・酒井極之助
また、正保三年(1646)棟札では、大工がこれまで続いてきた地元の乙幡氏ではなく、現在の大阪府堺市の高橋氏に変わっています。どうしたことでしょうか?
(4)慶長六年(1601)棟札
表
武州多東郡奈良橋内芋窪 神主若満
鴨久兵衛 同□太ろう □野善□□
□□□□衛門 木村□左衛門
奉造立鹿嶋大明神社頭一宇之事
大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿
番匠大工乙幡正左衛門
慶長六年(1601)戌丑二月朔日施主敬白
裏
記入なし。
施主の酒井氏は徳川家から配属された地頭様
慶長6年(1601)の棟札に記される大旦那酒井氏は、東大和市域に最初に配属された徳川家康の直属の家臣です。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻撃により八王子城(6月23日)、小田原城(7月5日)が開城し、後北条氏の時代が終わりました。
同年7月13日、秀吉は論功行賞の一環として家康の関東移封を発表します。家康は三河に帰らず江戸に入ります。翌、天正19年(1591)5月、家康は江戸城、江戸市街の整備をする前に家臣団を関東に配属し、狭山丘陵周辺には直属の家臣を配置しました。
この時、東大和市域内で、芋窪村と高木村に配属されたのが酒井極之助実明でした。知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)は発見されていません。
他の資料から、芋窪村380石、高木村70石と村名と知行高が決められていたことがわかります。
酒井氏は江戸が未整備なため、地元に陣屋を構え家族とともに生活しました。当初は陣屋の建設も間に合わず、旧家を利用したとされます。地元では地頭と呼ばれ、地頭畑を耕し、年貢の賦課をしました。
江戸へは江戸街道(東大和市内ではおおむね現在の新青梅街道→東京街道団地北側→久米川→田無橋場)を馬で通勤登城しました。
そのような状況で、慶長6年(1601)、豊鹿島神社本殿が修復されました。注目は、その棟札に従来とは違って、
・大旦那の氏名に実存した地頭の名が書かれ、
・上奈良橋郷の記載がなくなり、「武州多東郡奈良橋内芋窪」と初めて芋窪村という村の存在が明らかになったことです。
この段階で、他の地域についても、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村(うしろがやむら)、清水村(しみずむら)の名称が現れてきます。後には宅部村(やけべむら)がつくられます。家康の家臣を配置するにあたり、租税対象を明確にする上からも、散在していた集落を一定の範囲で区切って村をつくる、いわゆる「村切り」が行われたものと推測します。
また、参鴨久兵衛(みかも) 同□太ろう □野善□□ □□□□衛門 木村□左衛門などの人名は芋窪村の村人達であり、この時期に、領主と村人が共同で豊鹿島神社本殿を修築したことが偲ばれます。
また、前年の慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の合戦が行われました。地頭の酒井氏も出陣し、その際、神主若満が同道したと伝えられます。
(5)正保三年(1646)棟札
本殿棟札として残る最後の棟札です。徳川家三代将軍家光の時代に改修されました。
表
天下大平国土安全 神主石井出羽守 三十二才也
大工 泉州玉鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正
奉造栄鹿嶋大神宮御宝殿 現世安穏如意満足処成就
正保三年(1646)丙戌歳六月良辰
天下者武州江戸三代□□家光の御代の比 大施主 酒井極之助重忠
裏
武州多麻府上奈良橋郷 神主若満(花押)
藤原朝臣□□吉次□住
天下太平、国土安全、現世安穏の祈願が成就したことを称え、地頭の酒井極之助が大施主になっています。
地頭の酒井氏は酒井兵左衛門実明(極之助)が初代で、近江国鎌波の城主土肥近江守実秀の子でした。落城後に家老の酒井姓を名のり甲斐国武田家に仕えました。武田家が没落したのちに家康に仕え、天正19年(1591)に、芋窪村380石、高木村70石、合計450石を拝領しています。今回紹介する正保3年(1646)の大施主である酒井極之助重忠はその一族です。
もう一つ注目されるのが、修理工事を担当した大工です。棟札に「大工 泉州玉(王)鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正」と記されます。現在の大阪府堺市と考えられます。『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に「大鳥郷」があり、「大鳥郡」→「堺市」と辿れます。
青梅市の住吉神社本殿の正徳6年(1716)棟札に「本国泉州住処武州江戸大工棟梁貝塚作右衛門奉入」と記されているようですが、豊鹿島神社本殿の場合「泉州玉(王)鳥之郷境の住人」となっています。このような遠方から、なぜ、芋窪まで大工さんが来たのか気になります。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“豊鹿島神社本殿の棟札4 慶長六年(1601),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1581.