愛宕神社

狭山丘陵の峰にまつられた山の神と愛宕社.jpg
愛宕社石祠.jpg
左横_武藏国多摩郡蔵敷村共立.jpg
右横_明治11年戌寅秋社日.jpg
明治3年(1870)韮山県へ提出の熊野神社配置図.jpg
明治6年(1873)蔵敷村絵図.jpg

タイトル (Title)

愛宕神社

詳細 (Description)

位置 
 明治6年(1873)蔵敷村戸長から神奈川県令に出された絵図では太子堂の斜め北、御嶽神社と熊野神社の間に記されています。
 狭山丘陵内に明治11年(1878)の石祠があります。
祭神 不明
創建 不明
地誌類の記録
『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』
 いずれも記載なし
「明治2年(1869)9月15日、蔵敷村から韮山県への書き上げ」 (里正日誌10p421)
 乍恐以書付奉願上候
  武州多摩郡蔵敷村鎮守熊野大神・摂社愛宕大神・御嶽大神・浅間明神・日枝大神・山祇大明神右六社は村持
 として、熊野神社の摂社としています。明治初年の書き出しでは御嶽神社と熊野神社の間に記されています。その位置なのか、移転したのかは不明です。
「明治3年(1870)韮山県へ提出した調書」の熊野神社配置図
 明治3年(1870)11月17日、蔵敷村は当時所属した韮山県に神社調書を提出しています(里正日誌11p231)。その配置図を見ると
 熊野神社の東側に「此道愛宕山」の書き入れがあります。愛宕神社への参道があったことが示されます。現在も類する小径がありますが、書き入れ時の道か否かは確認できません。
「明治4年(1871)社寺調」の書き上げ(『里正日誌』12p42)
 愛宕大神 社地5畝(150坪・約500㎡) 本社など敷地20歩(20坪・約66㎡)
 杉、檜、欖(らん)、樅(もみ)、松など79本
 周辺は多くの木々で囲まれていたことがわかります。
 明治5年(1872)6月、元名主から神奈川県庁に出された「社地境内外区別帳」 (『里正日誌』12p319)では
 社建坪6歩(6坪) 平面4畝20歩とあり、社があったことが辿れます。
「明治6年(1873)蔵敷村戸長から神奈川県令に出された絵図」
 愛宕社として太子堂の斜め北、御嶽神社と熊野神社の間に記されています。
愛宕信仰の広まり
 愛宕大神の本地仏は地蔵尊、勝軍地蔵尊とされます。
 東大和市域では蔵敷愛宕社、芋窪豊鹿島神社、狭山円乗院などに愛宕社が存在します。また、隣接の所沢市山口中氷川神社に愛宕大権現、同・勝楽寺に愛宕山地蔵大権現、愛宕岩将軍地蔵尊がまつられており、愛宕信仰が広く行き渡っていたことが考えられます。
 それぞれの像の前に立つと明治前の村人達が神と仏をともにまつった気持ちが伝わってきます。

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Citation

“愛宕神社,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1595.