八幡神社の歴史
タイトル (Title)
八幡神社の歴史
詳細 (Description)
八幡神社は奈良橋地域の鎮守として親しまれています。年代は不詳ですが中世に、譽田別命(ほんだわけのみこと)を祭神として創建されたと伝えられます。
境内は広く、鎌倉街道と伝わる表参道から石段を上がり境内に入ります。第一の鳥居、第二の鳥居を経て、広い境内に、現在は石祠を含め8社の神々がまつられています。本殿には、地域にあった多くの神々が集まり、歴史の厚みに満ちています。
所在地 東京都東大和市奈良橋一丁目-256
祭 神 譽田別命(ほんだわけのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、
大山咋命(おおやまくひのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
天照坐皇大御神(あまてらすおおみかみ)
創 建 不詳
建 替 天正3年(1575)再興、元禄2年(1689)旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿建立
宝暦4年(1754)修覆 鎌田長右衛門、岸勘兵衛、石川利左衛門
昭和7年(1932)本殿、幣殿、拝殿改築
昭和61(1986)年3月、大雪のため改修
1由緒を辿ります。
(1)本殿の左側に北多摩神道青年会による由緒が掲示されています。
「八幡神社
主祭神名 誉田別之命
当社は創立年暦不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。
宮がこわれようとする頃、いつの戦か、武士がにげて来て、此の森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に「吾は八幡の神なり」当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(一五七五)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(一六八九)九月旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された。北多摩神道青年会」
(2)江戸時代の地誌は次のように記しています。
『新編武蔵風土記稿』は
八幡宮 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、
『狭山之栞』は
八幡宮
村里の惣鎭守なれど勧請年紀不詳。祭神は誉田和氣尊、応神天皇也。祭典毎歳八月十五日。別当本山修験八幡山覚寳院は聖護院旧宮末小田原玉龍坊配下府中門善坊霞下也。境内六反歩及び山王分六反歩除地なりしが雑新の際奉還す。元祖諸宝院より十一世承盛の世押本肇と改名復飾して神官となる。同氏地内に廻り四尺余の枳棋(けんぽなし)の木あり。尚八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈。
として 天正3年(1575)と宝暦4年(1754)の棟札を記しています。
(3)明治3年(1870)の報告
明治3年(1870)11月、当時の村が韮山県庁に報告した記録があります。創建以来、時を過ごし、多くの神々がまつられるようになりました。その状況は次の通りでした。
江戸時代末までは「八幡大菩薩」(祭神は誉田和気尊(ほんだわけのみこと))で、神仏が一緒にまつられていました。明治2年、仏を分離し「八幡大神」としました。そして、
①関連の社として、
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
②八幡神社と日月神社の両神主が勤める社として
諏訪大神
厳島大神
八坂大神
がまつられていました。その配置は次の図のように考えられます。
2現在の状況
明治150年の時を経て、現状はすっかり変わりました。
まず、八幡神社とその境内以外にまつられていた神々の社は全てなくなりました。多くが八幡神社に集まっています。経緯は明確ではありません。明治の村社(一村一社)制度が作用していることが想定されます。
現在八幡神社で直接目にする社は本殿と六つの境内社です。
①本殿
本殿の内に次の神々がまつられています。(北多摩神社誌による)
東殿
大山祇神社 大山祇神(おおやまずみのかみ)―→大山阿夫利神社 出羽三山神社
日月神社 天照坐皇大御神(あまてらすすめらおおかみ) 月読尊(つくよみのみこと)
八坂神社 素盞鳴命(すさのうのみこと)
中殿
八幡神社 誉田別之命(ほんだわけのみこと)
西殿
日枝神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
諏訪神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)
②境内社
御嶽大神(石祠 天児屋根命(あめのこやねのみこと)表参道石段の左側)
大六天社(石祠 表参道石段の右側)
蚕影社(石祠 第一の鳥居左側)
不明1(第二鳥居の前右側)
武内社(祭神 武内宿禰(たけのうちすくね)、第二鳥居奥右側
後の灯籠に昭和十五年四月吉日 株式会社小寺工務店)
神明宮(祭神 大孁之命(おおひるめのみこと 天照大神・天照大御神の異称、第二鳥居奥右側
明治百年記念 昭和四十三年九月十五日)
疱瘡社(石祠 本殿右側)
浅間神社(石祠 祭神 木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと) 本殿裏)
3歴史を語る石碑
八幡神社には神社の歴史を語る貴重な石碑があります。
①「社務所結婚式場建設記念碑」
社務所と幼稚園の間に設置されています。
実に貴重な碑で、先に、八幡神社と日月神社の両神主が勤める社として紹介した「諏訪」「八坂」「厳島」三社を明治44年5月、八幡神社に合祀した経緯が彫られています。
②「八幡神社社殿改築記念碑」
八幡神社の社殿は元禄2年(1689)の建立であるが、230有余年の星霜を経過し、大正14年(1925)12月に社殿を改築することを定めた。境内地の立木を用材となし、関係各位の浄財の寄進と労力奉仕とにより、昭和7年(1932)9月に現在の社殿が落成した。
と経緯を伝えます。本殿左に設置されています。
その後は、昭和61(1986)年3月、大雪のため甚大な破損を被り、改修事業を行っています。
狭山丘陵南面に位置する八幡神社は雑木林の持つ四季折々の景観の醍醐味に浸れます。
また、旧石器時代、縄文時代、古代の遺跡に囲まれていて、谷ッの状況からは古代の建立も考えさせられます。
なお、東大和市に伝わる民間行事の一つとして「天王さま」の日がありました。『東大和市史資料編』9では
「天王さま(七月十五日)
天王さまといって、その日はご馳走を作る。奈良橋の八幡様では祈願祭の神事を神社の役員が出席して行い、あと直会(なおらい)を今もやっている。」(p107)
境内は広く、鎌倉街道と伝わる表参道から石段を上がり境内に入ります。第一の鳥居、第二の鳥居を経て、広い境内に、現在は石祠を含め8社の神々がまつられています。本殿には、地域にあった多くの神々が集まり、歴史の厚みに満ちています。
所在地 東京都東大和市奈良橋一丁目-256
祭 神 譽田別命(ほんだわけのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、
大山咋命(おおやまくひのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
天照坐皇大御神(あまてらすおおみかみ)
創 建 不詳
建 替 天正3年(1575)再興、元禄2年(1689)旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿建立
宝暦4年(1754)修覆 鎌田長右衛門、岸勘兵衛、石川利左衛門
昭和7年(1932)本殿、幣殿、拝殿改築
昭和61(1986)年3月、大雪のため改修
1由緒を辿ります。
(1)本殿の左側に北多摩神道青年会による由緒が掲示されています。
「八幡神社
主祭神名 誉田別之命
当社は創立年暦不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。
宮がこわれようとする頃、いつの戦か、武士がにげて来て、此の森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に「吾は八幡の神なり」当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(一五七五)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(一六八九)九月旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された。北多摩神道青年会」
(2)江戸時代の地誌は次のように記しています。
『新編武蔵風土記稿』は
八幡宮 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、
『狭山之栞』は
八幡宮
村里の惣鎭守なれど勧請年紀不詳。祭神は誉田和氣尊、応神天皇也。祭典毎歳八月十五日。別当本山修験八幡山覚寳院は聖護院旧宮末小田原玉龍坊配下府中門善坊霞下也。境内六反歩及び山王分六反歩除地なりしが雑新の際奉還す。元祖諸宝院より十一世承盛の世押本肇と改名復飾して神官となる。同氏地内に廻り四尺余の枳棋(けんぽなし)の木あり。尚八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈。
として 天正3年(1575)と宝暦4年(1754)の棟札を記しています。
(3)明治3年(1870)の報告
明治3年(1870)11月、当時の村が韮山県庁に報告した記録があります。創建以来、時を過ごし、多くの神々がまつられるようになりました。その状況は次の通りでした。
江戸時代末までは「八幡大菩薩」(祭神は誉田和気尊(ほんだわけのみこと))で、神仏が一緒にまつられていました。明治2年、仏を分離し「八幡大神」としました。そして、
①関連の社として、
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
②八幡神社と日月神社の両神主が勤める社として
諏訪大神
厳島大神
八坂大神
がまつられていました。その配置は次の図のように考えられます。
2現在の状況
明治150年の時を経て、現状はすっかり変わりました。
まず、八幡神社とその境内以外にまつられていた神々の社は全てなくなりました。多くが八幡神社に集まっています。経緯は明確ではありません。明治の村社(一村一社)制度が作用していることが想定されます。
現在八幡神社で直接目にする社は本殿と六つの境内社です。
①本殿
本殿の内に次の神々がまつられています。(北多摩神社誌による)
東殿
大山祇神社 大山祇神(おおやまずみのかみ)―→大山阿夫利神社 出羽三山神社
日月神社 天照坐皇大御神(あまてらすすめらおおかみ) 月読尊(つくよみのみこと)
八坂神社 素盞鳴命(すさのうのみこと)
中殿
八幡神社 誉田別之命(ほんだわけのみこと)
西殿
日枝神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
諏訪神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)
②境内社
御嶽大神(石祠 天児屋根命(あめのこやねのみこと)表参道石段の左側)
大六天社(石祠 表参道石段の右側)
蚕影社(石祠 第一の鳥居左側)
不明1(第二鳥居の前右側)
武内社(祭神 武内宿禰(たけのうちすくね)、第二鳥居奥右側
後の灯籠に昭和十五年四月吉日 株式会社小寺工務店)
神明宮(祭神 大孁之命(おおひるめのみこと 天照大神・天照大御神の異称、第二鳥居奥右側
明治百年記念 昭和四十三年九月十五日)
疱瘡社(石祠 本殿右側)
浅間神社(石祠 祭神 木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと) 本殿裏)
3歴史を語る石碑
八幡神社には神社の歴史を語る貴重な石碑があります。
①「社務所結婚式場建設記念碑」
社務所と幼稚園の間に設置されています。
実に貴重な碑で、先に、八幡神社と日月神社の両神主が勤める社として紹介した「諏訪」「八坂」「厳島」三社を明治44年5月、八幡神社に合祀した経緯が彫られています。
②「八幡神社社殿改築記念碑」
八幡神社の社殿は元禄2年(1689)の建立であるが、230有余年の星霜を経過し、大正14年(1925)12月に社殿を改築することを定めた。境内地の立木を用材となし、関係各位の浄財の寄進と労力奉仕とにより、昭和7年(1932)9月に現在の社殿が落成した。
と経緯を伝えます。本殿左に設置されています。
その後は、昭和61(1986)年3月、大雪のため甚大な破損を被り、改修事業を行っています。
狭山丘陵南面に位置する八幡神社は雑木林の持つ四季折々の景観の醍醐味に浸れます。
また、旧石器時代、縄文時代、古代の遺跡に囲まれていて、谷ッの状況からは古代の建立も考えさせられます。
なお、東大和市に伝わる民間行事の一つとして「天王さま」の日がありました。『東大和市史資料編』9では
「天王さま(七月十五日)
天王さまといって、その日はご馳走を作る。奈良橋の八幡様では祈願祭の神事を神社の役員が出席して行い、あと直会(なおらい)を今もやっている。」(p107)
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Citation
“八幡神社の歴史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1602.