八幡神社社務所結婚式場建設記念碑
タイトル (Title)
八幡神社社務所結婚式場建設記念碑
詳細 (Description)
表参道から石段をあがり、第一の鳥居をくぐると左側に社務所があります。その奥に「社務所結婚式場建設記念碑」があります。
社務所・結婚式場建設の経過と共に、八幡神社の境外にまつられていた「諏訪」「八坂」「厳島」の神社について、非常に興味深い経過を刻んでいます。
社務所結婚式場建設記念碑
表面には次のように刻まれています。長文ですが全文を引用します。
「奈良橋 諏訪 八坂 厳島三社は明治四十四年五月八幡神社に合祀せる為 山林貳町二反五畝歩は官有地なりし処 明治四十五年五月、部落に於いて払い下げ、神社境外地として所有せり
此の払い下げに就いては、其の資金を得るに非常なる困難に直面し、すでに都会の財閥が払下げ手続きを完了せるも 当時の有志が血のにじむ如き努力を傾注し資金を得て 後代の為払い下げ置きたるものにして、先人の功績は永く感銘に堪えざるものあり
爾来五十有余を経たる今日に至り 稀々西武鉄道会社に於て付近の山林数万坪を買収し文化的施設を為し 将来土地の発展に寄与すると言う約に依り 昭和三十四年二月、之を同社に売却せり 此の売却に当たりては、八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、売却を容易ならしものなり
此の売却の記念事業として、東京都神社庁の奨励と氏子一致しての協賛に基き 社務所兼結婚式場建設を計企し 請負工事として昭和三十五年十月工を起し、約半歳を経て昭和三十六年五月完成せり 総坪数六十三坪なり 式場は西南に富嶽の秀峰を望み多摩川方面まで遠望出来眺望絶佳の勝地なり
而して式場は唯に結婚式のみならず 諸種の集会にも公開し、広く社会の福祉に貢献せむとするものである。
茲に、建設記念碑を建立して、其の来歴を叙して永く後世に伝ふ
昭和三十六年十一月二十八日
建設委員長 栗原英一郎
撰文 □書」
この碑の重要ポイント
明治時代の神社の合祀とその後の様子を伝える貴重な証言です。つまり、
・明治四十四年(1911)五月、諏訪 八坂 厳島三社を八幡神社に合祀した
合祀後の旧地は2町2反5畝あった
その地は都会の財閥が払下げ手続きを完了して、売り払われようとしていた
それを奈良橋村の有志が血のにじむ努力で資金を用意して村に払い下げるように運動を続けた
・明治四十五年(1912)五月、旧地を奈良橋村が払い下げを受け、神社境外地として所有した
・昭和三十四年(1959)二月、西武鉄道会社が文化的施設をつくるためとして、売却の要請があった
・八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、同社に売却した
・その資金で社務所兼結婚式場を建設した
と集約できます。
◎東大和市内では、この種の経過はこの碑以外に見ることができません。
◎村人達と神社の関係がよくわかります。
◎ただし、土地の面積に様々な数値が現れる点について、詳細は不明です。
①明治39年(1906)12月、新政府から神社合祀令が発布されました。
・同年、東大和市内の狭山では「愛宕社」「稲荷社」「山神社」「神明社」を狭山神社境内に遷しています。
・この流れが東大和市内の各地にあり、奈良橋村では明治44年(1911)5月になったことが考えられます。
②合祀後の用地払い下げ先は民間も対象になっていたことがわかります。
・それを知った村が払い下げ運動をして、ようよう取得した経過がわかります。
③西武鉄道株式会社による開発経過がわかります。
・昭和34年(1959)2月、周辺の開発に西武鉄道会社による文化的施設建設の計画があったとします。
実際は住宅開発となり、現在の湖畔地域の西武団地になっています。
・その際、八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、売却を容易にしたとします。
碑の文面について紹介しました。そして、次の問題が浮かんできます。
1「諏訪」「八坂」「厳島」の三社はどのようにまつられていたのか?
2「諏訪」「八坂」「厳島」の三社はどこにあった?
奈良橋地域の丘陵地に素朴な神祭りがされていたことが偲ばれます。
社務所・結婚式場建設の経過と共に、八幡神社の境外にまつられていた「諏訪」「八坂」「厳島」の神社について、非常に興味深い経過を刻んでいます。
社務所結婚式場建設記念碑
表面には次のように刻まれています。長文ですが全文を引用します。
「奈良橋 諏訪 八坂 厳島三社は明治四十四年五月八幡神社に合祀せる為 山林貳町二反五畝歩は官有地なりし処 明治四十五年五月、部落に於いて払い下げ、神社境外地として所有せり
此の払い下げに就いては、其の資金を得るに非常なる困難に直面し、すでに都会の財閥が払下げ手続きを完了せるも 当時の有志が血のにじむ如き努力を傾注し資金を得て 後代の為払い下げ置きたるものにして、先人の功績は永く感銘に堪えざるものあり
爾来五十有余を経たる今日に至り 稀々西武鉄道会社に於て付近の山林数万坪を買収し文化的施設を為し 将来土地の発展に寄与すると言う約に依り 昭和三十四年二月、之を同社に売却せり 此の売却に当たりては、八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、売却を容易ならしものなり
此の売却の記念事業として、東京都神社庁の奨励と氏子一致しての協賛に基き 社務所兼結婚式場建設を計企し 請負工事として昭和三十五年十月工を起し、約半歳を経て昭和三十六年五月完成せり 総坪数六十三坪なり 式場は西南に富嶽の秀峰を望み多摩川方面まで遠望出来眺望絶佳の勝地なり
而して式場は唯に結婚式のみならず 諸種の集会にも公開し、広く社会の福祉に貢献せむとするものである。
茲に、建設記念碑を建立して、其の来歴を叙して永く後世に伝ふ
昭和三十六年十一月二十八日
建設委員長 栗原英一郎
撰文 □書」
この碑の重要ポイント
明治時代の神社の合祀とその後の様子を伝える貴重な証言です。つまり、
・明治四十四年(1911)五月、諏訪 八坂 厳島三社を八幡神社に合祀した
合祀後の旧地は2町2反5畝あった
その地は都会の財閥が払下げ手続きを完了して、売り払われようとしていた
それを奈良橋村の有志が血のにじむ努力で資金を用意して村に払い下げるように運動を続けた
・明治四十五年(1912)五月、旧地を奈良橋村が払い下げを受け、神社境外地として所有した
・昭和三十四年(1959)二月、西武鉄道会社が文化的施設をつくるためとして、売却の要請があった
・八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、同社に売却した
・その資金で社務所兼結婚式場を建設した
と集約できます。
◎東大和市内では、この種の経過はこの碑以外に見ることができません。
◎村人達と神社の関係がよくわかります。
◎ただし、土地の面積に様々な数値が現れる点について、詳細は不明です。
①明治39年(1906)12月、新政府から神社合祀令が発布されました。
・同年、東大和市内の狭山では「愛宕社」「稲荷社」「山神社」「神明社」を狭山神社境内に遷しています。
・この流れが東大和市内の各地にあり、奈良橋村では明治44年(1911)5月になったことが考えられます。
②合祀後の用地払い下げ先は民間も対象になっていたことがわかります。
・それを知った村が払い下げ運動をして、ようよう取得した経過がわかります。
③西武鉄道株式会社による開発経過がわかります。
・昭和34年(1959)2月、周辺の開発に西武鉄道会社による文化的施設建設の計画があったとします。
実際は住宅開発となり、現在の湖畔地域の西武団地になっています。
・その際、八幡神社接続の地主四名が山林八反六畝歩を代替地として提出し、売却を容易にしたとします。
碑の文面について紹介しました。そして、次の問題が浮かんできます。
1「諏訪」「八坂」「厳島」の三社はどのようにまつられていたのか?
2「諏訪」「八坂」「厳島」の三社はどこにあった?
奈良橋地域の丘陵地に素朴な神祭りがされていたことが偲ばれます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“八幡神社社務所結婚式場建設記念碑,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1604.