日月神社跡

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タイトル (Title)

日月神社跡

詳細 (Description)

 青梅街道奈良橋交差点を左折して間もなくです。JA東京みどり東大和店の前に信号機があり、直進(青梅街道)、左斜め(旧街道)、右折(狭山丘陵・湖畔地区)の三つに道が分かれます。信号を右に曲がって約180メートル、左側に殉国慰霊塔がまつられています。
 日月神社のまつられていたところで、石段を登って入るとすぐ右側に日月神社旧址の碑があります。付近は「日月前川北」と呼ばれていました。明治初年まで、神社がありました。
1 話題豊富の背景
 日月神社は実に話題が豊富です。その背景に歴史の積み重ねが詰まっています。
①奈良橋村では、八幡神社を惣村社(村持)、日月神社を村社(神主持)としていたこと
②二つの神社が共通の摂社を持っていたこと
③氏子が奈良橋村と高木村にまたがっていて、中世・江戸時代の村切りに関わること
などです。
①②については八幡神社と二つの神社に属する摂社に書きました。
ここでは、③について書きます。
 2 明治3年(1870)の状況
 日月神社は、現在、八幡神社に合祀されています。そのため、神社の姿を目にすることができません。明治3年11月に奈良橋村から当時の韮山県に提出した記録があり、ここから復元します。 
 外から見える神社の大きさは正面、奥行き共に4メートル弱
 中央に正面が45㌢程の本社がまつられていました。
 祭神は天照皇大御神 月夜見命
 お祭り 毎年2月1日
 社地 900㎡
 管理 神主個人
 摂社 愛宕社 熊野社
 末社 御嶽大神 御霊明神 稲荷社2社
 東大和市域内では一般的な姿でした。
3 二村にまたがる氏子
  日月神社は奈良橋村にあって、氏子は奈良橋村と高木村から構成されていました。
  その事情を知る資料が、明治4年(1871)7月の神社社領調です。
 社地は900㎡
 日月神社周辺は杉林で覆われていました。
 周辺にあった摂社は40~50㎡弱の小規模であったことがわかります。
(1歩=3.3㎡)
 注目は日月明神社領として、武蔵国多摩郡高木 奈良橋村の両村が記されていることです。これには中世からの歴史が推定されます。
4 奈良橋村と高木村の混在
 高木村に次の図が残されています。
 奈良橋村と高木村は互いに接しています。村界は複雑ではありませんが図のように二つの村人達が入り混じって生活していました。図の奈良橋・高木村境界から左側の緑色、黄色の部分は高木地域の村人が奈良橋地域に土地を持っていることを示します。同様に奈良橋地域の人々が高木地域に土地を持ち、住んでいました。高木村で作成したため奈良橋村側の民家の配列は不明です。
 これには経過があります。
 ・中世、この地域は芋窪から高木まで「上奈良橋郷」という地名の地域でした。
 ・奈良橋村・高木村の人々は後に定められた両地区の開発を進めました。
 ・奈良橋地域には江戸初期徳川家康の直属の家臣・石川氏が地頭として配属されてきました。
 ・高木地域には1590年代、芋窪村と一緒に酒井氏が配属されました。
 ・その際、石高に併せて年貢対象地を決めたようです。
 ・この中途半端な村切りが後に影響しました。
 村人達は村切り以前から、奈良橋村に所属する村人は日月神社を産土としていました。高木村の人々は高木神社(明治初めまでは尉殿大権現)の氏子でした。江戸時代になって、急遽、神社の信仰圏ではなく、新しい村切りが行われたため、このような現象が生じたと考えます。
5 明治5年(1872)に解消
 村人達は所属の整理を申し出ます。結果、明治5年(1872)、高木村に住む奈良橋村の人々は高木村に、奈良橋村に存在する高木村の人々の所有地は奈良橋村に所属することに決定されました。
 一方で、その頃、日月神社は奈良橋の八幡神社に合祀されたと推定されます。
 40センチほどの背丈の碑ですが、積み重ねられた様々なことを言いたげです。

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Citation

“日月神社跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1606.