雲性寺の歴史

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地頭石川太郎右衛門代々の墳墓.jpg
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雲性寺住職李桃浄海画_明治14年5月.jpg

タイトル (Title)

雲性寺の歴史

詳細 (Description)

 文久2(1862)年の火災により古い記録をすべて失っています。
『信仰の姿と造形』(東大和市教委育委員会発行)は次のように記します。
・後世の地誌類、寺伝などによれば、永享11年(1439)に堂宇を建設
・天正元年(1573)に法印承永が再興
・元禄年間(1688~1703)に地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備とします。
◎文久2(1862)年の火災により、寺域は一時荒れた様子が伝えられます。
その後
・昭和16年、所沢市山口仏蔵院阿弥陀堂を譲り受けて本堂とする。(現在の観音堂)
・昭和56年、弘法大師1150年遠忌にあたり現在の本堂を再建
◎雲性寺には至徳元年(1384)から文明年間(1469~86)にかけての板碑10枚が保存されています。
これらは周辺に早くから生前・没後を含めて供養する習わしがあったことを推定させます。
地誌類の記録
1『新編武蔵風土記稿』
「雲性寺 除地、二段五畝、村の北山麓にあり、天王山観音院と号す、真義真言宗、中藤村真福寺の末、開山開基の人を伝へず、本堂五間に七間南向、本尊弥陀木の座像一尺六寸を安せり、境内には此所の地頭石川太郎右衛門代々の墳墓あり、
音堂 門を入て右にあり、二間四方、観音は十一面木の座像一尺二寸許なり、
天王社 境内後背の山の中腹にあり、則村内の鎮守なり、」
2『狭山の栞』
「天王山雲性寺観音院は以前は本尊不動明王なりしが、後三尊阿彌陀如来を安置す。長二尺許り。脇土勢至観音二体は立像にて長一尺余。
中藤村眞福寺の支院にして後の山に天王宮ある故天王山と号す。又、観音堂あるため院を然か名付く。
法流開基法印伝榮は享保三戌年五月五日寂す。(享保3年=1718)
地内観音堂本尊は十一面観世音にして狭山第十八番の霊崛(れいくつ)たり。
除地二反五畝歩は維新の際奉還す。
門前に弁才天の小祠ありしが維新の際 天王の社と共に諏訪山に引移す。
旧地頭石川大郎右衛門代々の墓碑七本各高二尺位也。」
3『信仰の姿と造形』p52~53
新義真言宗、豊山派。本尊・阿弥陀三尊。天王山観音院雲性寺と号す。中藤村・真福寺の末。
狭山丘陵を背景に、その南麓にある。境内は広く、本堂のほか、狭山三十三観音霊場第十八番札所として十一面観音像をまつる観音堂がある。また境内には石造物などもおおく保存されている。市内の五か寺のなかで三か寺が貯水池の建設により移転を余儀なくされたのに対し、当初の寺地にあるのが前記の円乗院とこの雲性寺の二か寺である。(円乗院は上ノ屋敷から現在地に移動しています)
現在の本堂は昭和五十六年、弘法大師一一五○年遠忌にあたり再建され、仏壇や仏具」なども新調したという。当寺の草創、詳細な歴史については不明であるが、後世の地誌類、寺伝などによれば、永享十一年(一四三九)に堂宇を建設し天下の安穏、仏法興隆を祈誓したことに始まるという。その後、栄枯盛衰を重ね、天正元年(一五七三)に法印承永が再興し、元禄年間(一六八八~一七〇三)には地頭石川太郎右衛門により新伽藍を整備されたと伝えられる。
明治の小学校
・明治5年の学制発布により、明治6年(1873) 最初の小学校である厳玉学舎(げんぎょくがくしゃ)が仮本堂に設けられました。
 住職の李桃浄海が教師になっています。
・明治9年(1876)7月、厳玉学舎が奈良橋学校となりました。
 神奈川県からの通達により、一つの村に小学校一校を置く場合は校名に村名をつけることになったことによる。
・明治27年(1894)、村山第二尋常小学校と改名。
 以後、大正12年(1923)、現在の第一小学校の地に新しい学校が設置されるまで存続しました。
自由民権運動
 奈良橋学校で、明治14年(1881)11月21日 自由民権「奈良橋自由懇親会」が開催されています。

Item Relations

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Collection

Citation

“雲性寺の歴史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1608.