狭山神社の歴史

江戸時代狭山地域(後ヶ谷村・宅部村)の神社位置図.jpg
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江戸時代狭山神社(天狗大明神)周辺図.jpg
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タイトル (Title)

狭山神社の歴史

詳細 (Description)

 狭山神社は幾多の経過を経て現在に到っています。創建時は天狗大明神としてまつられました。その年代は不明です。
まず、左図をご覧下さい。江戸時代の狭山地域(当時は後ヶ谷村、宅部村)の神社の位置図です。村人は各所に神祭りをしていました。
ところが、明治維新後、「大明神」のような神と仏が一緒になった名前は改めることになりました。そこで、明治初年、「天狗大明神」を「天狗明神」とし、明治14年(1881)、「狭山神社」と改称しました。
次いで、明治39年(1906)、「府県社、郷社、村社」に関する令と「社寺合併並合併跡地譲与」に関する令が出されました。これは、結果的に、一村に主要な神社一社を定めることとなりました。狭山地域でも、狭山神社が村社になり、それぞ
れの地にまつられた神社は狭山神社に遷されました。その結果、狭山神社は図のように
本殿の中に
・天狗(天空)大明神(伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)
境内に
・愛宕社(阿遇突智神 かぐづちのかみ)
・神明社(天照大神)
・稲荷社
・山神社
がまつられることになりました。
その後、大正3年(1914)、村山貯水池の建設工事が行われることになりました。この地にあった御霊神社は湖底に沈むため、狭山神社に合祀されました。
その後については、狭山神社氏子会発行の『狭山神社』から、その経緯を引用します。
狭山神社氏子会『狭山神社』
狭山神社沿革
狭山神社は往古より祀られていた天宮(天狗)神社の境内に(創建不明)、明治39年に本殿を覆殿した際、狭山村内の各所にあった「愛宕社」「神明社」「稲荷社」「山神社」を移転しました(いずれも創建不明)。それ以降、狭山村の村社とし、「狭山神社」と総称するようになりました。
大正12年(1923)に、村山貯水池の工事に伴い村全体が移転したため、湖底になってしまう御霊神社と境内社を狭山神社に合祀しました。
さらに、昭和40年9月に、境内にあった(本殿の左側)愛宕社を本殿に合祀しました。また、右横にあつた神明社は、本社の横に安置しました。
現在の狭山神社は、正面の本殿に、天狗大明神・御霊明神・愛宕社、八坂大神の4柱が一緒に祀られております。
なお、「天狗大明神」銘の木札(もくさつ)が残されており、裏には寛政11年(1799)年の銘があります。
平成6年3月12日に、この2社を覆う覆殿(ふくでん)、幣殿(へいでん)、拝殿の落成式典が行われました。
境内には、稲荷神社(右側)と山神社(左側)があります。(以下略)(p8)
江戸時代の各社の姿
江戸時代、狭山神社(天狗大明神)周辺は全域が狭山丘陵の里山で廻田、谷っ入りと呼ばれる狭山丘陵の小さな谷ッの入りくんだ地域でした。その丘陵の先端と南に広がる新田開発地域に各社がまつられました。その姿は『新編武蔵風土記稿』及び『狭山之栞』に記されています。関係箇所を引用します。
『新編武蔵風土記稿』の狭山の神社
・稲荷社見捨地、七八間四方、わづかなる祠なり、
・山神社除地、五段一畝六歩、南畑中にあり、纔(わずか)なる祠なり、村内円乗院の持なり、
・神明社 字南分と云所にあり、これもわづかなる祠なり、傍にひらきの古木あり、囲み七尺許、其外にも古木多く見えたれば、古社なるべし、もとより鎮座の初め年代は失へり、
・天狗社 これも同じ辺にあり、纔(わずか)なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、これも鎮座の初めを伝へず、
・御領明神社 除地、六畝二十歩、小名内堀にあり、この辺を宮の下山根と云ふ、二間に三間の上屋を造りて、内にわづかなる宮をおけるなり、
・末社 愛宕社 わづかなる祠にて、後の方にあり、
江戸時代には、人々は狭山丘陵の根通りに居住し、空堀川以南はすべて新田開発をした畑地で、人家は一軒もありません。畑地では稗、粟、芋類が主要な作物として栽培されていました。その一画の前野に豊作を願う稲荷社が、さらに南の山神に山神社がまつられていました。
山神社の所在地には「山神東」「山神西」という小字名が付けられていました。山神が山ではなくて畑にまつられるのはこの地域の特色とも云えます。
『狭山之栞』の狭山の神社(p30)
・神明神社(清水堺に在り)は伊弉諾命を祭り祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが現在三畝拾四歩は官有地たり。從来村里の鎭守にして旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遙拝所 を建て天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東清水村に在り。
・前野稲荷は字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余ありしが自然立枯れ遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無柳澤辺よりも望み得る程の高さなりしが弘化三丙午年二月二日の大風にてたおれそ の跡を失ふ。俗に枯杉稻荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐り て神官の復飾料に供す。
・愛宕神社は狭山南峯の出崎にあり。神体は將軍地藏也。下田七畝廿歩の除地を賜はり圓乗院が別当なりしが維新の際弟子秀鏡復飾して後藤兵庫と改称神官となる。祭典六月廿四日。
・天宮神社は字上の屋敷に在り。元鎭守神明あまりに霊験嚴かなりしに遙拝所を建立せしを終に鎮守とし天保八年八月祭日を八月一日と改め初めて幟一門を納めしが其時誤りて天狗大明神と染めしにより現今も然か呼べど誤なり。
・山神社は野中にあり。祭紳野茅屋姫命也。祭典二月十七日。寛文九年三月下畑五反壱畝六歩の除地なりしが現今三畝拾四歩官有地となる。
・御料神社 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る。古時は御霊明神と唱へしが延宝五年(1677)再検地の砌御料所の鎮座なるに依て縣令設楽孫兵衛差図にて改む。維新の際元の如く御霊明神と更称、中田六畝廿歩の除地は奉還し現今社地壱反壱畝廿歩官有地となる。
別當常覚院は復飾して内堀宅美と改め神官となる。祭典毎年六月十五日。
末社弁財天は日(市?)杵嶋神社に天王は八坂と改称す。

『狭山之栞』は、狭山神社の前身は「天宮神社」で「天狗大明神」は誤りである。それは、天保8年(1837)に幟を納めた時、間違って「天狗大明神」と染めたことによるものである、とします。また、「天宮神社は字上の屋敷に在り」とします。上の屋敷の位置は現在の二ッ池の付近を指します。
しかし、現・狭山神社本殿内に「寛政11年(1799)4月吉日 天狗大明神」の木札が保管されています。従って、天保8年(1837)以前から「天狗大明神」と呼ばれていたことが推定できます。上の屋敷には円乗院の前身「延寿院」があり、慶長12年(1607)8月18日に、風災によって坊舎が悉く吹き潰されたため現在地に移ったことが記録に残されています。十分な調査がまたれます。

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“狭山神社の歴史,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1617.