神明社跡
タイトル (Title)
神明社跡
詳細 (Description)
狭山二丁目の志木街道が新道と旧道の交差する角です。現在、東大和市消防団第二分団詰所があります。右方向は武蔵大和駅~東村山駅を経て志木市に達します。左の道は狭山神社を経て村山貯水池に沈んだ旧村に達していました。
神明社はこの地にありました。神明社跡地の碑があります。
神明社の歴史を辿ってみます。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は
・神明社
字南分と云所にあり、これもわづかなる祠なり、傍にヒイラギの古木あり、囲み七尺許、其外にも古木多く見えたれば、古社なるべし、もとより鎮座の初め年代は失へり、
・天狗社
これも同じ辺にあり、纔(わずか)なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、これも鎮座の初めを伝へず、
と距離にして300㍍ほどのところに神明社と天狗社(現在の狭山神社の位置)があったことを記録しています。
地元の地誌『狭山之栞』は
「神明神社(清水堺に在り)は伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祭り祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが現在三畝拾四歩は官有地たり。從来村里の鎭守にして旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遙拝所を建て天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東清水村に在り。」
と、神明社(神明神社)と天狗社(天宮大明神・現狭山神社)の関係を記しています。
二つの神社の創建は不明ですが、明治12年(1879)の書き上げによれば
・神明社 祭神 天照大神
・天狗社 祭神 伊弉諾尊(いざなぎ) 伊弉冉尊(いざなみ)
となっています。江戸時代の集落に置き直してみると、神明社は武蔵野の原野に接する村の入り口、天狗社は少し奥まった谷ッの入り口に位置していて、村人達がそれぞれに崇拝していた事がわかります。
ところが、明治になり、新政府の神社政策、「一村に一つの神社」の方針により、明治39年(1906)、神明社は天狗社の場所に他の神社と共に合祀されて、狭山神社としてまつられました。現在は住宅地化されて姿を変えていますが、かってのこの地域は典型的な狭山の里山地域でした。
「神明社跡地」の碑には裏面に次のように説明が彫られています。
「狭山の栞(地誌)によればこの土地は村里の鎮守として親しまれた神明社の跡地といわれ御神体は現在狭山神社に合祀され守護神として祀られています。
この跡地の由来を後世に伝えるためこの碑を建立いたしました。
跡地の表示
所在地 東大和市狭山二丁目
地番 一三七五番地
地目 宅地
地籍 三八三、二四平方米
平成七年九月吉日 狭山神社氏子中 建之」
平成5年(1993)、狭山神社の本殿が建て替えられるまでは、本殿の横に神明社の社がありました。現在は本殿の中に木造の社としてまつられています。
幕府御用船に大欅が伐られた
神明社に関して是非ともお伝えしたいことがあります。神明社には、神木として大きな欅(けやき)の木がありました。近くに「森下」を屋号とする家があります。余ほど、こんもりとした森になっていたのでしょう。村人達はこの神木を大事にしていました。ところが、幕末、ペリーの来航を契機に、江戸湾防備にと、小村人達の反対にもかかわらずこの大木を伐りました。
神明社はこの地にありました。神明社跡地の碑があります。
神明社の歴史を辿ってみます。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は
・神明社
字南分と云所にあり、これもわづかなる祠なり、傍にヒイラギの古木あり、囲み七尺許、其外にも古木多く見えたれば、古社なるべし、もとより鎮座の初め年代は失へり、
・天狗社
これも同じ辺にあり、纔(わずか)なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、これも鎮座の初めを伝へず、
と距離にして300㍍ほどのところに神明社と天狗社(現在の狭山神社の位置)があったことを記録しています。
地元の地誌『狭山之栞』は
「神明神社(清水堺に在り)は伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祭り祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが現在三畝拾四歩は官有地たり。從来村里の鎭守にして旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遙拝所を建て天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東清水村に在り。」
と、神明社(神明神社)と天狗社(天宮大明神・現狭山神社)の関係を記しています。
二つの神社の創建は不明ですが、明治12年(1879)の書き上げによれば
・神明社 祭神 天照大神
・天狗社 祭神 伊弉諾尊(いざなぎ) 伊弉冉尊(いざなみ)
となっています。江戸時代の集落に置き直してみると、神明社は武蔵野の原野に接する村の入り口、天狗社は少し奥まった谷ッの入り口に位置していて、村人達がそれぞれに崇拝していた事がわかります。
ところが、明治になり、新政府の神社政策、「一村に一つの神社」の方針により、明治39年(1906)、神明社は天狗社の場所に他の神社と共に合祀されて、狭山神社としてまつられました。現在は住宅地化されて姿を変えていますが、かってのこの地域は典型的な狭山の里山地域でした。
「神明社跡地」の碑には裏面に次のように説明が彫られています。
「狭山の栞(地誌)によればこの土地は村里の鎮守として親しまれた神明社の跡地といわれ御神体は現在狭山神社に合祀され守護神として祀られています。
この跡地の由来を後世に伝えるためこの碑を建立いたしました。
跡地の表示
所在地 東大和市狭山二丁目
地番 一三七五番地
地目 宅地
地籍 三八三、二四平方米
平成七年九月吉日 狭山神社氏子中 建之」
平成5年(1993)、狭山神社の本殿が建て替えられるまでは、本殿の横に神明社の社がありました。現在は本殿の中に木造の社としてまつられています。
幕府御用船に大欅が伐られた
神明社に関して是非ともお伝えしたいことがあります。神明社には、神木として大きな欅(けやき)の木がありました。近くに「森下」を屋号とする家があります。余ほど、こんもりとした森になっていたのでしょう。村人達はこの神木を大事にしていました。ところが、幕末、ペリーの来航を契機に、江戸湾防備にと、小村人達の反対にもかかわらずこの大木を伐りました。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“神明社跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1618.