前野稲荷
タイトル (Title)
前野稲荷
詳細 (Description)
狭山神社本殿の石段を登ると右側に稲荷社があります。明治政府による「一つの村に主要な神社は一社とする」との方針によって、明治39年(1906)、狭山神社境内に遷されました。それまでは、江戸時代からの新田開発による畑が続く南の前野の呼ばれる地域(現・第四小学校の北側、都営アパートの付近)にありました。
江戸時代の地誌
『新編武蔵風土記稿』は
・稲荷社 見捨地、七八間四方、わづかなる祠なり、
『狭山之栞』は
・前野稲荷は字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余(約4メートル)ありしが、自然立枯れ遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無柳澤辺よりも望み得る程の高さなりしが弘化三丙午年(1846)二月二日の大風にてたおれその跡を失ふ。
俗に枯杉稻荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐りて神官の復飾料に供す。
と記しています。村人達にとって、稲荷社は天候の安定、豊作を願う神でした。そのため、各屋敷に屋敷神としてまつることも多かったのですが、前野稲荷は特別に村でまつっていたようです。創立年代は不明です。一丈三尺余(4メートル)の大杉があったことは年代の古さを思わせ、屋敷神をまつる以前の集団的な講の存在を想定させます。
弘化三(1846)の大風
『狭山之栞』は弘化三年(1846)二月二日の大風を伝えます。この日は、隣接の中藤村(現・武蔵村山市)に残る『指田日記』にも
大風。宅部の杉本失火、類焼三軒
と記されています。村山貯水池に沈んだ宅部(現在の下貯水池取水塔のある辺り)で火災が発生して三光院が焼失しています。住職が氷川神社の別当をしていたため、氷川神社の貴重な棟札も焼失しています。
一方で、「きつねの恩返し」(『東大和のよもやまばなし』p179)の伝承を生み、当時の人々の優しさ、生活を偲ばせます。
この時、前野の稲荷社に残されていた神木の大杉が倒れたのでしょう。
江戸時代の地誌
『新編武蔵風土記稿』は
・稲荷社 見捨地、七八間四方、わづかなる祠なり、
『狭山之栞』は
・前野稲荷は字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余(約4メートル)ありしが、自然立枯れ遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無柳澤辺よりも望み得る程の高さなりしが弘化三丙午年(1846)二月二日の大風にてたおれその跡を失ふ。
俗に枯杉稻荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐りて神官の復飾料に供す。
と記しています。村人達にとって、稲荷社は天候の安定、豊作を願う神でした。そのため、各屋敷に屋敷神としてまつることも多かったのですが、前野稲荷は特別に村でまつっていたようです。創立年代は不明です。一丈三尺余(4メートル)の大杉があったことは年代の古さを思わせ、屋敷神をまつる以前の集団的な講の存在を想定させます。
弘化三(1846)の大風
『狭山之栞』は弘化三年(1846)二月二日の大風を伝えます。この日は、隣接の中藤村(現・武蔵村山市)に残る『指田日記』にも
大風。宅部の杉本失火、類焼三軒
と記されています。村山貯水池に沈んだ宅部(現在の下貯水池取水塔のある辺り)で火災が発生して三光院が焼失しています。住職が氷川神社の別当をしていたため、氷川神社の貴重な棟札も焼失しています。
一方で、「きつねの恩返し」(『東大和のよもやまばなし』p179)の伝承を生み、当時の人々の優しさ、生活を偲ばせます。
この時、前野の稲荷社に残されていた神木の大杉が倒れたのでしょう。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“前野稲荷,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1620.