徳川氏御朱印状(氷川神社宛8通)

氷川大明神に発給された8通の朱印状.jpg
十四代家茂朱印状.jpg
左石段新築碑_中央・重建華表之記_右・敷石の碑.jpg
重建華表之記.jpg
氷川神社・熊野神社の旧地.jpg

タイトル (Title)

徳川氏御朱印状(氷川神社宛8通)

詳細 (Description)

所在地 東大和市清水3丁目786番地の1
    清水神社
指 定 平成元年4月1日
説 明 江戸時代御朱印状の発給によって所有地に年貢や課役が免除された寺社は全国に及ぶが、明治維新後はそれらの多くが没収され、現在では残在するものは決して数多くない。
 今回発見された8通の御朱印状は四代将軍家綱、五代綱吉、九代家重、十代家治、十一代家斉、十二代家慶、十三代家定、十四代家茂の発給したもので、現在三光院が所蔵している市指定文化財の御朱印状のうち、氷川神社宛の3通(二代秀忠、三代家光、八代吉宗)と合わせ、氷川神社に対する一連の御朱印状が揃ったことになる。
 氷川神社は村山貯水池建設に際して大正5年(1916年)に氏子とともに移転し、清水神社と改称したもので、神社を中心とした地域の歴史資料としても貴重なものである。(清水神社社殿新築記念誌p12)
 四代将軍徳川家綱から氷川大明神=氷川神社=清水神社が受けた朱印状です。
 氷川大明神社領武蔵国多麻郡清水村内五石事任天正十九年十一月日元和三年三月十七日寛永十三年十一月九日先判之旨永不可有相違者也
 意訳すれば、武蔵国多麻郡清水村内の氷川大明神の社領五石は
 天正十九年十一月日(家康)
 元和三年三月十七日(秀忠)
 寛永十三年十一月九日(家光)
 が決められたとおり、永く相違があってはいけない。と書かれています。
 氷川大明神の朱印状は今回、市重宝に指定された8通と三光院に保存されている3通(二代秀忠、三代家光、八代吉宗)と合わせると合計11通になります。
 初代 家康 無し
 二代 秀忠 元和3年(1617)3月17日
 三代 家光 寛永13年(1636)11月9日
 四代 家綱 寛文5年(1666)7月11日
 五代 綱吉 貞享2年(1685)6月11日
 六代 家宣 無し(発給されなかった?) 
 七代 家継 無し(発給されなかった?)
 八代 吉宗 享保2年(1717)7月11日
 九代 家重 延享4年(1747)8月11日
 十代 家治 宝暦12年(1762)8月11日
 十一代 家斉 天明8年(1788)9月11日
 十二代 家慶 天保10年(1839)9月11日
 十三代 家定 安政2年(1855)9月11日
 十四代 家茂 万延元年(1860)9月11日
 十五代 慶喜 無し(発給されなかった?)
 初代家康の朱印状を欠いていますが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は「御朱印五石は、天正十九年十一月日御寄付あり」と記述しています。さらに、現清水神社表参道からの鳥居右側にある「重建華表之記」に「天正十九年圭田五斛(こく)を賜り、」と彫られています。五石の給付がなされ、朱印状があったことが伺えます。
 この石碑は、延享4年(1747)に石階を築いた時、木造の華表をつくったが朽ちたので、明治30年(1897)地元の方々47名によって造立されたものです。大要、次のように刻まれています。
「北多摩郡清水村村社氷川神社は山下門前にあり素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命三神を祭る
 健保二年建立という、天正十九年圭田五斛(こく)を賜り、延享四年(1747)石階を築き木造の華表を造った。それが朽ちたので朽ちないように石造に建て替えた。」
 とするものです。
 徳川将軍十五代のうち、朱印状のない六代家宣、七代家継、十五代慶喜については治世の期間が短期であったことなどから、発給されなかった事も推定されています。とすれば、初代家康の朱印状を欠く他はすべて揃っていることになります。
 参考までに記しますが、初代家康の発給した「天正19年(1591)11月日」の朱印状は隣接した三光院宛てのものが残されております。
 なお、氷川大明神は明治になって氷川神社となりました。村山貯水池の建設によって湖底に沈むことになり、現在の清水神社の地に遷り、熊野神社と合祀して清水神社と改称しました。

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Citation

“徳川氏御朱印状(氷川神社宛8通),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1639.