狭山の栞 紙型(しけい)および挿絵判(一括)
タイトル (Title)
狭山の栞 紙型(しけい)および挿絵判(一括)
詳細 (Description)
東大和市に独特の指定文化財があります。
出版物(書籍)を再販印刷するときに必要となる「紙型」(しけい)と「挿絵判」(さしえはん)です。
郷土史に欠かせない『狭山之栞』の出版に関わります。
所在地 東大和市狭山
東大和市重宝
指定 平成25年(2013)4月1日
指定理由
「狭山の栞」は、杉本林志(しげゆき)によって著わされた幕末から明治期にかけての狭山丘陵一帯の村々の地誌の記録であり、林志の曾孫である杉本寛一によって昭和14年(1939年)に刊行された書籍である。
紙型(しけい)は、活版印刷物による出版物を再版するために作成するもので、19世紀末に日本に入った技術である。
原版を作成する際に鉛を流し込むと消失してしまうことから、再版を予測していったんは作成したものの、実際には再版に至らず不要となり、印刷業者から杉本家へ手渡されたものと推測できる。
紙型は消耗品であると同時に、活版印刷技術がほぼ消滅した今日においては、その現存数は少ないと思われ、加えて個人宅に残されている事例は極めて珍しい。また、「狭山の栞」のすべてのページが残されている点も貴重である。
挿絵判は、「狭山の栞」に収載されている挿絵を、ひとつずつ木製の台に鉛の印判を貼り付けてつくられたもので、収載の挿絵すべての印判が現存していないが、紙型にはすべての印判が押圧されており、これによって紙型の価値を損なうものではない。
昭和10年代の印刷技術を知る資料が東大和市内に残されている点で貴重である。
『狭山之栞』
『狭山之栞』は江戸時代末から明治初年にかけて
・狭山丘陵周辺の全村を
・多摩郡27
・入間郡33
・区域に分けて
・歴史や言い伝え
を記録した本です。
記録したのは杉本林志(しげゆき)氏で、狭山村の前身である後ヶ谷村(うしろがやむら)の名主でした。『多摩湖の歴史』で、成迫政則氏(調査会理事)が次のように記しています。
「杉本林志(しげゆき 一八一五(文化一〇)年~一八八八(明治一二)年)は、狭山丘陵を中心とし、その周辺の村々の歴史や記録をまとめた『狭山之栞』の著者。
入間郡久米村(現所沢市)の平塚家に生まれ一六才で杉本家に入り、一九才の時養父定賢が他界するとその長女と結婚し、翌年二〇才で名主役を継承し、所沢組合四八か村の取締役となった。林志は若年ながら名主としての職責を果たし、地頭浅井家に対して、隣村清水村の百姓が門訴に及ぶ大事件があったが、単身浅井家に出頭し、円満解決をみるにいたったという。
弘化四年(1847)三五才で一二才の長男に名主役を譲り、その後見役となった。それから四〇余年間関東各地の史蹟の探求、神社仏閣の巡礼などにその大半をあてている。
中でも狭山周辺の歴史の研究に力を入れ、数か村の地誌の編さんにたずさわっている。『狭山の栞』は、江戸末期から明治の初年にかけての狭山丘陵周辺の様子をよく伝えているので、郷土史の研究者にとっては貴重な文献である。また当家にあった古文書類一式は、現在、国立史料館に保存されている。(『多摩湖の歴史』〈成迫政則〉p212)
杉本寛一氏のことば
『狭山之栞』の発行者である杉本寛一氏は、出版に際し、次のように記しています。長文なので一部を抜粋します。
「・・・・故翁としては徳川幕府の瓦解から明治維新の革命に際し、政治に経濟に宗敦に異常の大変化を来したがために、自ら改廃せられゆくべき神社仏閣、或は滅亡せんとする名勝旧跡又は天然物等を惜しむのあまり、出来うるだけ存在のままを記録し事情がゆるしたならば上梓して残しておきたいといふ念願を持つていた。
そしてこつこつと村から里へと草鞄穿(わらじばき)きで調べ歩きやつと書き終つたのが明治十四五年の頃であつたらうか。
ところが時代の潮流はこの稿本をわが家に所藏したままでおいた間に更に維新当時の変革の比ではない空前の異変を狭山の谷々へもたらしてしまつた。
即ち翁没後二十数年を経た明治の末期から大正時代を過ぎ然も昭和九年迄継続事業として施行された村山及び山ロ貯水池の出現である。
これがためその地域に包含された村落に於ける民戸の移転に伴い一切に大動揺を来したので、折角の丹精と苦心になった稿本の中相当に書き改めねばならぬ状態になってしまったのである。
今回出版するにつき貯水池出現前後の狭山の実状を再査比較した上、稿本書換の必要なことも考へぬでもなかつたが、さうしたのでは時代的遺業の生地を傷める恐れがあるので字句的その他冗長にわたる箇所などの省略訂正をした他は旧稿のままにした。・・・
・・・もし本書閲読の諸賢にしてお気づきの点は隔意なき御叱正を賜りたいと思うのである。・・・・」(後略)
昭和十四年二月一日 杉本 寛一」(『狭山之栞』跋p2)
『狭山之栞』の貴重さ
『狭山之栞』は『里正日誌』とともに、東大和市が誇る貴重な文化財です。現在見られなくなった史料が掲載されています。その一例です。
上の図は豊鹿島神社への将軍家光公の御朱印です。本殿が貴重な室町時代建造物として東京都指定文化財に指定されています。その本殿を前に、わらじばきで訪ねた林志氏が神主さんと話しながら筆をとっている姿が浮かんできます。
この図も「挿絵判」に残されています。
「紙型」「挿絵判」の実物については、市の郷土博物館に照会してください。
出版物(書籍)を再販印刷するときに必要となる「紙型」(しけい)と「挿絵判」(さしえはん)です。
郷土史に欠かせない『狭山之栞』の出版に関わります。
所在地 東大和市狭山
東大和市重宝
指定 平成25年(2013)4月1日
指定理由
「狭山の栞」は、杉本林志(しげゆき)によって著わされた幕末から明治期にかけての狭山丘陵一帯の村々の地誌の記録であり、林志の曾孫である杉本寛一によって昭和14年(1939年)に刊行された書籍である。
紙型(しけい)は、活版印刷物による出版物を再版するために作成するもので、19世紀末に日本に入った技術である。
原版を作成する際に鉛を流し込むと消失してしまうことから、再版を予測していったんは作成したものの、実際には再版に至らず不要となり、印刷業者から杉本家へ手渡されたものと推測できる。
紙型は消耗品であると同時に、活版印刷技術がほぼ消滅した今日においては、その現存数は少ないと思われ、加えて個人宅に残されている事例は極めて珍しい。また、「狭山の栞」のすべてのページが残されている点も貴重である。
挿絵判は、「狭山の栞」に収載されている挿絵を、ひとつずつ木製の台に鉛の印判を貼り付けてつくられたもので、収載の挿絵すべての印判が現存していないが、紙型にはすべての印判が押圧されており、これによって紙型の価値を損なうものではない。
昭和10年代の印刷技術を知る資料が東大和市内に残されている点で貴重である。
『狭山之栞』
『狭山之栞』は江戸時代末から明治初年にかけて
・狭山丘陵周辺の全村を
・多摩郡27
・入間郡33
・区域に分けて
・歴史や言い伝え
を記録した本です。
記録したのは杉本林志(しげゆき)氏で、狭山村の前身である後ヶ谷村(うしろがやむら)の名主でした。『多摩湖の歴史』で、成迫政則氏(調査会理事)が次のように記しています。
「杉本林志(しげゆき 一八一五(文化一〇)年~一八八八(明治一二)年)は、狭山丘陵を中心とし、その周辺の村々の歴史や記録をまとめた『狭山之栞』の著者。
入間郡久米村(現所沢市)の平塚家に生まれ一六才で杉本家に入り、一九才の時養父定賢が他界するとその長女と結婚し、翌年二〇才で名主役を継承し、所沢組合四八か村の取締役となった。林志は若年ながら名主としての職責を果たし、地頭浅井家に対して、隣村清水村の百姓が門訴に及ぶ大事件があったが、単身浅井家に出頭し、円満解決をみるにいたったという。
弘化四年(1847)三五才で一二才の長男に名主役を譲り、その後見役となった。それから四〇余年間関東各地の史蹟の探求、神社仏閣の巡礼などにその大半をあてている。
中でも狭山周辺の歴史の研究に力を入れ、数か村の地誌の編さんにたずさわっている。『狭山の栞』は、江戸末期から明治の初年にかけての狭山丘陵周辺の様子をよく伝えているので、郷土史の研究者にとっては貴重な文献である。また当家にあった古文書類一式は、現在、国立史料館に保存されている。(『多摩湖の歴史』〈成迫政則〉p212)
杉本寛一氏のことば
『狭山之栞』の発行者である杉本寛一氏は、出版に際し、次のように記しています。長文なので一部を抜粋します。
「・・・・故翁としては徳川幕府の瓦解から明治維新の革命に際し、政治に経濟に宗敦に異常の大変化を来したがために、自ら改廃せられゆくべき神社仏閣、或は滅亡せんとする名勝旧跡又は天然物等を惜しむのあまり、出来うるだけ存在のままを記録し事情がゆるしたならば上梓して残しておきたいといふ念願を持つていた。
そしてこつこつと村から里へと草鞄穿(わらじばき)きで調べ歩きやつと書き終つたのが明治十四五年の頃であつたらうか。
ところが時代の潮流はこの稿本をわが家に所藏したままでおいた間に更に維新当時の変革の比ではない空前の異変を狭山の谷々へもたらしてしまつた。
即ち翁没後二十数年を経た明治の末期から大正時代を過ぎ然も昭和九年迄継続事業として施行された村山及び山ロ貯水池の出現である。
これがためその地域に包含された村落に於ける民戸の移転に伴い一切に大動揺を来したので、折角の丹精と苦心になった稿本の中相当に書き改めねばならぬ状態になってしまったのである。
今回出版するにつき貯水池出現前後の狭山の実状を再査比較した上、稿本書換の必要なことも考へぬでもなかつたが、さうしたのでは時代的遺業の生地を傷める恐れがあるので字句的その他冗長にわたる箇所などの省略訂正をした他は旧稿のままにした。・・・
・・・もし本書閲読の諸賢にしてお気づきの点は隔意なき御叱正を賜りたいと思うのである。・・・・」(後略)
昭和十四年二月一日 杉本 寛一」(『狭山之栞』跋p2)
『狭山之栞』の貴重さ
『狭山之栞』は『里正日誌』とともに、東大和市が誇る貴重な文化財です。現在見られなくなった史料が掲載されています。その一例です。
上の図は豊鹿島神社への将軍家光公の御朱印です。本殿が貴重な室町時代建造物として東京都指定文化財に指定されています。その本殿を前に、わらじばきで訪ねた林志氏が神主さんと話しながら筆をとっている姿が浮かんできます。
この図も「挿絵判」に残されています。
「紙型」「挿絵判」の実物については、市の郷土博物館に照会してください。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“狭山の栞 紙型(しけい)および挿絵判(一括),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1641.