蔵敷太子堂跡
タイトル (Title)
蔵敷太子堂跡
詳細 (Description)
蔵敷に太子堂跡があります。村人と共に周辺の職人集団から信仰された聖徳太子の像をまつった堂です。
江戸時代には寺子屋が営まれ、明治初年、村の最初の小学校となりました。
狭山丘陵の裾野を縫うように走る主要街道・村山道(現青梅街道に合流)沿いにあり、多くの人々の交流が生まれました。
所在地 蔵敷一丁目436番地
指定年月日 昭和58年(1983)3月1日
指定理由
近世に太子堂があった場所であり、広く太子信仰をあつめていた。明治時代には蔵敷村の学校がおかれた場所でもあり、青年団の夜学も行われた。市の教育史の上でも重要な地である。
教育委員会説明
東大和市史跡 蔵敷太子堂跡
所在 東大和市蔵敷一丁目四三六番地
指定 昭和五十八年三月一日
この地は、江戸時代に太子堂が置かれた場所である。『新編武蔵風土記稿』によれば、旧多摩郡山口領(現東大和市・武蔵村山市・東村山市一帯及び清瀬市・小平市・立川市・瑞穂町の一部)に存在した太子堂は、寺院に村属するものを除けば、蔵敷の一堂のみであった。
また明治五年(一八七二年〉の学制発布に伴ない、汎衆学舎(はんしゅうがくしゃ)と呼ばれる蔵敷村の学校が置かれた場所でもあり、その後も蔵敷村青年団活動の拠点となった。
現在の建造物は当時の面影はないが、厨子(空殿)が安置されており、太子像が祀られている。
昭和五十八年七月
東大和市教育委員会
いつ頃できたのか
はっきりしたことは不明ですが、手がかりがあります。太子堂の右前に地蔵尊がまつられています。
丸彫りの立像です。台石に
左面 蔵敷村小嶋五良兵衛 施主
享保十五戌歳
中央 権大僧都法印尊長 霊位
右面 海誉智観法印
と彫られています。
・権大僧都法印尊長の霊を弔うため
・海誉智観法印の時代に
・小嶋五良兵衛が施主になって建立したことが刻まれています。
この3者の関係については『里正日誌』が次のように記します。
・享保15年(1730)9月15日 権大僧都法印尊長 太子堂において遷化 当村共葬墓地に殯す(1p337)
・七周忌 元文元年(1736)堂守智観の代 堂前に立像の地蔵尊を建立す 施主小嶋五郎兵衛他(1p337)
・智観法印 寛保3年(1743)8月22日太子堂にて遷化 尊長法印は智観の師範(1p338)
・大正10年3月地蔵尊覆屋新築
・小嶋家はこの地域の有力者とされます。
現在のところ、この記録が地蔵尊像と覆い屋の建立経過を記した最古のようです。
これからすると、太子堂は享保年代(1716~1735)には建立されていたことがわかります。
文化3年(1806)太子堂は焼失し、文化4(1807)に、寄進をもとに再建されています。
僧侶が住み、管理をしていました。
太子講が形成されていた?
現在の建物の中に入ると正面の中央に仏壇が設けられています。そこに、厨子に入った銅造の聖徳太子立像と木造の阿弥陀如来立像(脇仏)が安置されています。
聖徳太子をまつる場合、太子の遺徳を讃え、学問のすゝめ、職業の安定、伸長を願う人々によって「太子講」が結ばれていることが知られます。蔵敷の太子堂の場合も
・文政8年(1825)1月「太子講中人数覚」
・弘化2年(1845)「太子講連名控帳」
・万延元年(1860)「太子講連名控」
があります。しかし、内容は太子堂で行われた「頼母子講」(たのもしこう)のものと考えられています。(『東大和市史資料編』9p145)
太子をまつる講も長い間に変化したことが想定されます。
寺子屋~明治の小学校
太子堂は江戸時代末には寺子屋として名を広めました。
代表する師匠は石原伴鳳です。太子堂の前庭右側に碑があります。
享和2年(1802)、熊本に生まれ、天保年間(1830~1843)に蔵敷村に来たとされます。
開かれた寺子屋では、多くの子弟に慕われ、明治最初の小学校「汎衆学舎」(はんしゅうがくしゃ)の教師になりました。
碑は教え子達が師を称えて建立しました。
碑文の全文は杉本林志著『狭山之栞』に採録されています。
当時の師は途方もない労苦を負いながら子供達の教育に当たったようです。
蔵敷村の名主であった内野杢左衛門は『杢翁記録』に次のように記します。
「当村にては石原仙左衛門(号伴鳳)、天保の初め太子堂にて近隣の子供に習字せしか
村の百姓八兵衛の潰屋敷へ普請し、妻を迎ひ、豆腐造り小児玩具物を行商し傍ら子弟を教育せり
盛なる時は小百人にも及ふと、中藤より清水迄其他遠村より内弟子もありき
この外太子堂には当時の住職皆寺子屋式の習字師也しと・・・」
やがて太子堂は明治の小学校になります。
明治5年(1872)8月、新政府は「学制頒布」(がくせいはんぷ)をしました。これを機に、全国的に小学校が義務化され、校舎造りが始まったとされます。
ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。
「明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、神奈川県から「従来の筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止、師匠は試験の上、小学舎の教師になれ」と達せられた。
当時、村々の間では相談して、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めていたが、まだ着手していなかったので、その計画を直ちに止め、次のように校舎を置いた。」
表にします。
当時の村々は教育熱心でした。最初は現在の東大和市全地域で2校の計画のようでしたが、激論の末、上の表のように5地域に分けて設置されました。
太子堂は寺子屋を経て小学校になりました。維持経費の負担は、さぞ、大変であったろうと思います。
ここでの学びは村の近代化に大きく貢献しました。
そのひとりに内野吉次郎氏がいます。石原伴鳳の指導を受けたあと、更に上京して学びを重ねて「汎衆学舎」で教鞭(17歳)をとりました。
そして、内野杢左衛門氏と共に、多摩で最初の民権学習結社「衆楽会」(しゅうらくかい)の結成にかかわり、狭山丘陵周辺の初期自由民権運動を力強く推し進めています。
小嶋家一族共同で使うお祝いの道具を収めていました(現在はありません)。
画像左側手前から2番目の電柱の奥に太子堂跡があります。
地味ですが郷土にこのような史跡があることを誇りにします。
江戸時代には寺子屋が営まれ、明治初年、村の最初の小学校となりました。
狭山丘陵の裾野を縫うように走る主要街道・村山道(現青梅街道に合流)沿いにあり、多くの人々の交流が生まれました。
所在地 蔵敷一丁目436番地
指定年月日 昭和58年(1983)3月1日
指定理由
近世に太子堂があった場所であり、広く太子信仰をあつめていた。明治時代には蔵敷村の学校がおかれた場所でもあり、青年団の夜学も行われた。市の教育史の上でも重要な地である。
教育委員会説明
東大和市史跡 蔵敷太子堂跡
所在 東大和市蔵敷一丁目四三六番地
指定 昭和五十八年三月一日
この地は、江戸時代に太子堂が置かれた場所である。『新編武蔵風土記稿』によれば、旧多摩郡山口領(現東大和市・武蔵村山市・東村山市一帯及び清瀬市・小平市・立川市・瑞穂町の一部)に存在した太子堂は、寺院に村属するものを除けば、蔵敷の一堂のみであった。
また明治五年(一八七二年〉の学制発布に伴ない、汎衆学舎(はんしゅうがくしゃ)と呼ばれる蔵敷村の学校が置かれた場所でもあり、その後も蔵敷村青年団活動の拠点となった。
現在の建造物は当時の面影はないが、厨子(空殿)が安置されており、太子像が祀られている。
昭和五十八年七月
東大和市教育委員会
いつ頃できたのか
はっきりしたことは不明ですが、手がかりがあります。太子堂の右前に地蔵尊がまつられています。
丸彫りの立像です。台石に
左面 蔵敷村小嶋五良兵衛 施主
享保十五戌歳
中央 権大僧都法印尊長 霊位
右面 海誉智観法印
と彫られています。
・権大僧都法印尊長の霊を弔うため
・海誉智観法印の時代に
・小嶋五良兵衛が施主になって建立したことが刻まれています。
この3者の関係については『里正日誌』が次のように記します。
・享保15年(1730)9月15日 権大僧都法印尊長 太子堂において遷化 当村共葬墓地に殯す(1p337)
・七周忌 元文元年(1736)堂守智観の代 堂前に立像の地蔵尊を建立す 施主小嶋五郎兵衛他(1p337)
・智観法印 寛保3年(1743)8月22日太子堂にて遷化 尊長法印は智観の師範(1p338)
・大正10年3月地蔵尊覆屋新築
・小嶋家はこの地域の有力者とされます。
現在のところ、この記録が地蔵尊像と覆い屋の建立経過を記した最古のようです。
これからすると、太子堂は享保年代(1716~1735)には建立されていたことがわかります。
文化3年(1806)太子堂は焼失し、文化4(1807)に、寄進をもとに再建されています。
僧侶が住み、管理をしていました。
太子講が形成されていた?
現在の建物の中に入ると正面の中央に仏壇が設けられています。そこに、厨子に入った銅造の聖徳太子立像と木造の阿弥陀如来立像(脇仏)が安置されています。
聖徳太子をまつる場合、太子の遺徳を讃え、学問のすゝめ、職業の安定、伸長を願う人々によって「太子講」が結ばれていることが知られます。蔵敷の太子堂の場合も
・文政8年(1825)1月「太子講中人数覚」
・弘化2年(1845)「太子講連名控帳」
・万延元年(1860)「太子講連名控」
があります。しかし、内容は太子堂で行われた「頼母子講」(たのもしこう)のものと考えられています。(『東大和市史資料編』9p145)
太子をまつる講も長い間に変化したことが想定されます。
寺子屋~明治の小学校
太子堂は江戸時代末には寺子屋として名を広めました。
代表する師匠は石原伴鳳です。太子堂の前庭右側に碑があります。
享和2年(1802)、熊本に生まれ、天保年間(1830~1843)に蔵敷村に来たとされます。
開かれた寺子屋では、多くの子弟に慕われ、明治最初の小学校「汎衆学舎」(はんしゅうがくしゃ)の教師になりました。
碑は教え子達が師を称えて建立しました。
碑文の全文は杉本林志著『狭山之栞』に採録されています。
当時の師は途方もない労苦を負いながら子供達の教育に当たったようです。
蔵敷村の名主であった内野杢左衛門は『杢翁記録』に次のように記します。
「当村にては石原仙左衛門(号伴鳳)、天保の初め太子堂にて近隣の子供に習字せしか
村の百姓八兵衛の潰屋敷へ普請し、妻を迎ひ、豆腐造り小児玩具物を行商し傍ら子弟を教育せり
盛なる時は小百人にも及ふと、中藤より清水迄其他遠村より内弟子もありき
この外太子堂には当時の住職皆寺子屋式の習字師也しと・・・」
やがて太子堂は明治の小学校になります。
明治5年(1872)8月、新政府は「学制頒布」(がくせいはんぷ)をしました。これを機に、全国的に小学校が義務化され、校舎造りが始まったとされます。
ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。
「明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、神奈川県から「従来の筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止、師匠は試験の上、小学舎の教師になれ」と達せられた。
当時、村々の間では相談して、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めていたが、まだ着手していなかったので、その計画を直ちに止め、次のように校舎を置いた。」
表にします。
当時の村々は教育熱心でした。最初は現在の東大和市全地域で2校の計画のようでしたが、激論の末、上の表のように5地域に分けて設置されました。
太子堂は寺子屋を経て小学校になりました。維持経費の負担は、さぞ、大変であったろうと思います。
ここでの学びは村の近代化に大きく貢献しました。
そのひとりに内野吉次郎氏がいます。石原伴鳳の指導を受けたあと、更に上京して学びを重ねて「汎衆学舎」で教鞭(17歳)をとりました。
そして、内野杢左衛門氏と共に、多摩で最初の民権学習結社「衆楽会」(しゅうらくかい)の結成にかかわり、狭山丘陵周辺の初期自由民権運動を力強く推し進めています。
小嶋家一族共同で使うお祝いの道具を収めていました(現在はありません)。
画像左側手前から2番目の電柱の奥に太子堂跡があります。
地味ですが郷土にこのような史跡があることを誇りにします。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“蔵敷太子堂跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1648.