青梅橋跡
タイトル (Title)
青梅橋跡
詳細 (Description)
西武拝島線の東大和市駅南口を出ると広場になっています。かって、ここに野火止用水が流れていました。
その野火止用水に架けた橋が「青梅橋」です。
画像の横断歩道になっている辺りに用水の流れと橋がありました。流れの中央が東大和市と小平市の境です。
その跡が市の史跡に指定されています。
所在地 東大和市桜が丘1-1415付近
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路
東大和市史跡 昭和58年(1983)3月1日指定
指定理由 江戸時代初期、青梅街道が野火止用水と交わる地点にかけられたのが青梅橋である。
江戸時代から今日に至るまで交通上の重要な拠点であるが、用水が暗渠になって橋は消滅している。
現在では、地元でも、正確にその場所を知る人は少なくなりました。東大和市駅の下り線ホームの窓から覗くとやや辿れます。
江戸市中の人口増により、承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、翌承応4年(1655)野火止用水が開削されました。茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が通りました。府中道と呼ばれる、狭山丘陵から武蔵府中に通ずる古代からの道が一筋と、青梅成木から江戸市中に石灰を運ぶ青梅街道が野火止用水と交差しました。その場に架けられたのが青梅橋でした。
東大和市域の村の人々は野火止用水が開削されると間もなく、一面の原野を用水に向かって新田開発をしました。早くも、1600年代末には「用水際」の地名が現れてきます。この頃までに、用水の際まで開発が終わったようです。しかし、一滴の水の利用も許されませんでした。赤っ風の伝承が残ります。
江戸時代の道中記御嶽菅笠(天保5・1834、齋藤義彦)に青梅橋の様子が描かれて居ます。野火止用水の北側には東大和市域の村人達が営んだ店が描かれて居ます。馬継ぎの機能を持つ休憩所や飲食のお店と伝えられます。稲荷社は瘡守稲荷として御利益を求めて、遠方からも多くの人々がお参りに来たとされます。現在は小平市側の高架下におまつりされています。
その野火止用水に架けた橋が「青梅橋」です。
画像の横断歩道になっている辺りに用水の流れと橋がありました。流れの中央が東大和市と小平市の境です。
その跡が市の史跡に指定されています。
所在地 東大和市桜が丘1-1415付近
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路
東大和市史跡 昭和58年(1983)3月1日指定
指定理由 江戸時代初期、青梅街道が野火止用水と交わる地点にかけられたのが青梅橋である。
江戸時代から今日に至るまで交通上の重要な拠点であるが、用水が暗渠になって橋は消滅している。
現在では、地元でも、正確にその場所を知る人は少なくなりました。東大和市駅の下り線ホームの窓から覗くとやや辿れます。
江戸市中の人口増により、承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、翌承応4年(1655)野火止用水が開削されました。茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が通りました。府中道と呼ばれる、狭山丘陵から武蔵府中に通ずる古代からの道が一筋と、青梅成木から江戸市中に石灰を運ぶ青梅街道が野火止用水と交差しました。その場に架けられたのが青梅橋でした。
東大和市域の村の人々は野火止用水が開削されると間もなく、一面の原野を用水に向かって新田開発をしました。早くも、1600年代末には「用水際」の地名が現れてきます。この頃までに、用水の際まで開発が終わったようです。しかし、一滴の水の利用も許されませんでした。赤っ風の伝承が残ります。
江戸時代の道中記御嶽菅笠(天保5・1834、齋藤義彦)に青梅橋の様子が描かれて居ます。野火止用水の北側には東大和市域の村人達が営んだ店が描かれて居ます。馬継ぎの機能を持つ休憩所や飲食のお店と伝えられます。稲荷社は瘡守稲荷として御利益を求めて、遠方からも多くの人々がお参りに来たとされます。現在は小平市側の高架下におまつりされています。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“青梅橋跡,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1649.