(4)十八番札所 雲性寺
タイトル (Title)
(4)十八番札所 雲性寺
詳細 (Description)
観音堂
第十七番・狭山の霊性庵から円乗院の前を通り村山道に出て西に進みます。旧道は奈良橋川に架かる日月橋を渡ってすぐの小径を右に入ります。よくも残されたと驚きながら、曲がりくねって辿ると、狭山丘陵の峰に木々が茂り、雲性寺、観音堂があります。
自動車の場合は奈良橋交差点を過ぎ、郷土博物館入口交差点を右に入ります。
観音堂は雲性寺の正面からは山門を入って境内の左奥にあります。本尊は十一面観音像をまつります。
本 尊 十一面観音像
所在地 東大和市奈良橋一丁目363番地
詠 歌
ひたすらに 助け給えや観世音 夢のこの世も また後の世も
御朱印は雲性寺で頂けます。
観音堂
観音堂の創建年代は不明です。
『新編武蔵風土記稿』は「観音堂門を入て右にあり、二間四方、観音は十一面木の坐像一尺二寸(三十六㌢)許なり」とあります。
江戸時代末には二間四方の堂が門を入って右側にあったことがわかります。現在とは位置が異なります。その理由は、「昭和十六年に所沢市山口仏蔵院阿弥陀堂を譲り受けていったん当寺の本堂としたが、昭和五十九年に現在の本堂を新築建立した際、旧本堂を西側に移して観音堂に改めたものである」(『東大和市史資料編8 信仰の姿と造形』p180)ことによります。
観音像
観音堂の本尊は木造十一面観音菩薩坐像です。その姿について、『東大和市史資料編8信仰の姿と造形』は 「左手は肘を曲けて華瓶(けびょう)を執り、右手は膝上に垂下して掌を上に五指を開いて、蓮華座上に左足を上にして結跏趺坐する姿である。着衣は偏杉の上に大衣を上半身にまとう僧体ようらくとし、現状では瓔珞(ようらく)などの装具を付けないが、これらは失われたものであろう。 寄木造りで目には玉眼がはめ込まれている。全身黒く煤けたようにみえるが、顔や胸など肉身部は漆箔がほどこされ、着衣部は黒漆のままとする。」(p181)とします。
なお、観音堂内には観音様とあわせて木造の弁財天座像がまつられています。以前は山門の前の弁天堂にまつられていました。
順礼道
現在も旧道が辿れます。
丹念に探すと旧道がたどれます。第十七番札所霊性庵から、狭山神社、円乘院を経て狭山丘陵の麓を巡る志木街道(村山道)に出ます。50㍍ほど進んで左折し、再度旧道に入ります。
狭山村・高木村・奈良橋村の路はまさに行き交う人々が寄り添って挨拶を交わす路でした。高木の塩竃様で路は二つに分かれます。志木街道に出て、或いは清戸街道を西に向かい奈良橋に入ります。日月橋を渡りすぐの細道を右に入ります。迷うほどの曲がりくねった小径を進むと突然のように八幡谷ッへ出て、そこが雲性寺・十八番観音堂です。
狭山札所巡拝紀念奉納額
本堂と観音堂の間に弘法大師がまつられています。傍らに墓地への参道があります。
左側の観音堂の壁に狭山札所巡礼紀念の奉納額が掲げられています。
昭和5年11月25日 武蔵野観音講の皆様が狭山札所を巡礼した際の紀念奉納額です。名前がびっしり書き込まれています。
狭山札所巡礼紀念として339名、世話人を合わせると総勢382名の名前が村別に記されています。
・大和村(東大和市) 奈良橋22 蔵敷8 芋窪34 高木17 狭山19 清水36 計136人
・東村山村(東村山市) 回田43 野口71 大岱51 久米川24 計189人
・村山村(武蔵村山市) 原山3
・久留米村(東久留米市) 柳窪7
・所沢町(所沢市) 所沢4
・世話人43(正福寺 梅岩寺 徳蔵寺 雲性寺 仏眼寺を含む)合計382人
記された各町村に講が形成されていて、そろって狭山三十三の札所を巡拝したことがわかります。
これほど多くの人々が巡拝したことは、いかに当時の信仰が厚かったが伝わり、貴重な資料として大切にしたいです。
観音堂の前の石碑
観音堂の前には図の碑があります。
十九番札所へ
十八番札所雲性寺観音堂から次の十九番「はやし堂」へは丘陵の麓の路を進みます。
お遍路道は、現在、少し幅を広げて地域の生活道となっています。 医療機関の乏しかった江戸時代、天王様に病疫の防止と退治を願い、お地蔵様に救いを託し、観音様に何よりの安全を祈願した人々の思いがそのまま伝わってきます。
第十七番・狭山の霊性庵から円乗院の前を通り村山道に出て西に進みます。旧道は奈良橋川に架かる日月橋を渡ってすぐの小径を右に入ります。よくも残されたと驚きながら、曲がりくねって辿ると、狭山丘陵の峰に木々が茂り、雲性寺、観音堂があります。
自動車の場合は奈良橋交差点を過ぎ、郷土博物館入口交差点を右に入ります。
観音堂は雲性寺の正面からは山門を入って境内の左奥にあります。本尊は十一面観音像をまつります。
本 尊 十一面観音像
所在地 東大和市奈良橋一丁目363番地
詠 歌
ひたすらに 助け給えや観世音 夢のこの世も また後の世も
御朱印は雲性寺で頂けます。
観音堂
観音堂の創建年代は不明です。
『新編武蔵風土記稿』は「観音堂門を入て右にあり、二間四方、観音は十一面木の坐像一尺二寸(三十六㌢)許なり」とあります。
江戸時代末には二間四方の堂が門を入って右側にあったことがわかります。現在とは位置が異なります。その理由は、「昭和十六年に所沢市山口仏蔵院阿弥陀堂を譲り受けていったん当寺の本堂としたが、昭和五十九年に現在の本堂を新築建立した際、旧本堂を西側に移して観音堂に改めたものである」(『東大和市史資料編8 信仰の姿と造形』p180)ことによります。
観音像
観音堂の本尊は木造十一面観音菩薩坐像です。その姿について、『東大和市史資料編8信仰の姿と造形』は 「左手は肘を曲けて華瓶(けびょう)を執り、右手は膝上に垂下して掌を上に五指を開いて、蓮華座上に左足を上にして結跏趺坐する姿である。着衣は偏杉の上に大衣を上半身にまとう僧体ようらくとし、現状では瓔珞(ようらく)などの装具を付けないが、これらは失われたものであろう。 寄木造りで目には玉眼がはめ込まれている。全身黒く煤けたようにみえるが、顔や胸など肉身部は漆箔がほどこされ、着衣部は黒漆のままとする。」(p181)とします。
なお、観音堂内には観音様とあわせて木造の弁財天座像がまつられています。以前は山門の前の弁天堂にまつられていました。
順礼道
現在も旧道が辿れます。
丹念に探すと旧道がたどれます。第十七番札所霊性庵から、狭山神社、円乘院を経て狭山丘陵の麓を巡る志木街道(村山道)に出ます。50㍍ほど進んで左折し、再度旧道に入ります。
狭山村・高木村・奈良橋村の路はまさに行き交う人々が寄り添って挨拶を交わす路でした。高木の塩竃様で路は二つに分かれます。志木街道に出て、或いは清戸街道を西に向かい奈良橋に入ります。日月橋を渡りすぐの細道を右に入ります。迷うほどの曲がりくねった小径を進むと突然のように八幡谷ッへ出て、そこが雲性寺・十八番観音堂です。
狭山札所巡拝紀念奉納額
本堂と観音堂の間に弘法大師がまつられています。傍らに墓地への参道があります。
左側の観音堂の壁に狭山札所巡礼紀念の奉納額が掲げられています。
昭和5年11月25日 武蔵野観音講の皆様が狭山札所を巡礼した際の紀念奉納額です。名前がびっしり書き込まれています。
狭山札所巡礼紀念として339名、世話人を合わせると総勢382名の名前が村別に記されています。
・大和村(東大和市) 奈良橋22 蔵敷8 芋窪34 高木17 狭山19 清水36 計136人
・東村山村(東村山市) 回田43 野口71 大岱51 久米川24 計189人
・村山村(武蔵村山市) 原山3
・久留米村(東久留米市) 柳窪7
・所沢町(所沢市) 所沢4
・世話人43(正福寺 梅岩寺 徳蔵寺 雲性寺 仏眼寺を含む)合計382人
記された各町村に講が形成されていて、そろって狭山三十三の札所を巡拝したことがわかります。
これほど多くの人々が巡拝したことは、いかに当時の信仰が厚かったが伝わり、貴重な資料として大切にしたいです。
観音堂の前の石碑
観音堂の前には図の碑があります。
十九番札所へ
十八番札所雲性寺観音堂から次の十九番「はやし堂」へは丘陵の麓の路を進みます。
お遍路道は、現在、少し幅を広げて地域の生活道となっています。 医療機関の乏しかった江戸時代、天王様に病疫の防止と退治を願い、お地蔵様に救いを託し、観音様に何よりの安全を祈願した人々の思いがそのまま伝わってきます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“(4)十八番札所 雲性寺,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1656.