諏訪山遺跡(縄文時代中期)
タイトル (Title)
諏訪山遺跡(縄文時代中期)
詳細 (Description)
東大和市の先史時代を語る代表的な遺跡の一つに諏訪山遺跡があります。限られた一部の発掘でしたが6軒の家の跡、5つの窯の跡、たくさんの土器片、石器が見つかりました。縄文時代中期、今から5000年から6000年前に縄文人が住んでいた集落の跡です。
縄文人の家の跡が見つかった
昭和41年(1966)2月、現在の西武団地の開発が進みます。その最中です。土器が出てきて東京都に報告し、発掘調査をすることになりました。結果、縄文時代の人が住んでいた家の跡が見つかりました。南北4.8㍍、東西5㍍のほぼ丸い家です。6~7本の柱の穴があり、真ん中に炉がありました。『東大和市史資料編』3は次のように説明します。
「住居中央にある炉は、回りを比較的平らな石で囲んだ「石囲い炉」(いしがこいろ)という種類のものだが、さらに真ん中に土器を埋め込み、炉の機能を高めている。炉に埋められた土器は、縄文時代中期の加曽利E式(かそり)という種類の土器で、この住居が建てられた時期を確定する手がかりとなるものだ。このほか、柱を立てた穴のそばなどから、炉に使われたのと同じ種類の土器が見つかっている。」(p88)
場所は、現在の奈良橋一丁目、湖畔二丁目の堺、西武団地の一角です。
土器が出てきました。
土器のもようから、勝坂式土器と加曽利E式土器で、縄文時代中期の中頃、約5000年~6000年前と判断されました。そして、『東大和市史資料編』3は「遺跡内での二種類の土器の出土のしかたに大きな差はなく、ほぼ同時期に使われていたと考えられている。」としています。
石器もたくさん出ました。
「なんと石ころの多い家だろう!」
と発掘している人がビックリするほどでした。それも目に付くのは多くが下の画像のような石器です。打製石斧(だせいせきふ)とよばれます。
発見された石器について『東大和市史資料編』3は次のように記しています。
「発見された遺物の中では打製石斧がおよそ四分の一を占め、石器だけに限ると実に八割という高い割合を示す。打製石斧の使い方として一般的に言われているのは、土掘り具としての使い方だ。住居とする竪穴を掘る以外にも、日常的に木の根や球根などの採集のために必要だったという考え方だ。このことは、諏訪山遺跡での打製石斧の在り方を裏付ける・・・」(p92)
火を起こす道具も出ました。
画像の右下の穴の開いている石で火をおこしました。
家は全部で11軒あった
この地の縄文人は、地面をまるく掘り込んで床として、中央に炉をつくり、何本かの柱を建てて屋根をかけた家に住みました。縄目の模様のついた土器で煮炊きをしたり、石を焼いて蒸し焼きにしました。まだ稲や麦を栽培することを知らず、狩りと採集を主とする人々であったようです。
そのような人々の使った家が6軒発掘されました。そして、図の一番右側の家は重なっていました。これから大事なことがわかってきました。この遺跡の特徴です。
家が重なっていることは、住んだ時代が違うことを意味します。『東大和市史資料編』3は次のように分析しています。
「集落全体としてほぼ同一の時期に営まれたようだが、ここで問題となるのは第五号及び第六号住居跡が重複して発見されたことだ。少なくともこの二軒が同時に存在することはできず、あらためて六軒を見ると、住居に伴う炉の形の違いから、二つのグループにわけることができた。第二号住居跡、第四号住居跡など掘り込みのある炉の周囲に置いてあった石を抜き取った痕跡のあるグループと、一号住居のように床と同じ高さで石を置き炉のくぼみも浅いグループだ。
ここで両グループの時間差を考えると、例えば第一号住居跡など新しい家をつくるのに、古くなった第二号住居跡の炉の石をリサイクルして使ったという説明が成り立つ。つまり諏訪山の集落は二つの時期にわたって営まれたと考えられるが、土器の共存状況からみて連続した短い期間のことだったと考えるべきだろう。」
さらに周辺の調査をすると、上の図の四角に囲まれたところに6軒(発掘)、その他、北側に(図の上)に5つの炉跡(ろあと)が発見されました。住居址としての発掘は行われませんでしたが家が連なっていたことが推定されます。諏訪山の平らなところ全体が縄文人の家、小さな集落であったようです。
発掘中の話題として「それでは、水はどこから?」との疑問があがりました。「二つ池の周辺で湧き水を利用したのだろう」「貯水池に沈んだ沢まで行ったんだろう」と議論が湧きました。改めて二つ池の歴史的な背景が重くなりました。
諏訪山遺跡の縄文人は諏訪山の峰に家を構えました。上図のように家々が連なっていたことも考えられます。しかし、この人たちは、やがて地球が寒くなってくるとどこかへ移って行きました。縄文時代後期(約4000~3000年前)、晩期(約3000~2400年前)には東大和市にパッタリ人が居なくなります。
パッタリ居なくなって、次に現れるのは古墳時代
長い間、東大和市内に人は留守でした。次に人が現れるのは同じ諏訪山の南麓、二つ池に近いところです。古墳時代です。わずかの家族が定着して、廻田田んぼを開いたようです。
昭和41年(1966)、まだ諏訪山遺跡が確認される前です。この地域にブルドーザーが入り、地面を削った土の中に二つだけ茶碗が混じっていました。幸い、工事の方が取り分けてくれました。連絡があって、すぐに周辺を調べましたがすでに地面は削られ、遺跡や遺物は発見できませんでした。
土器の鑑定を依頼した結果、鬼高式土器とわかり、古墳時代後期・5世紀後半の遺物とされます。現在のところ、これが東大和市唯一古墳時代の生活の跡を示します。
説明がややこしくなりますが、これまで述べてきた諏訪山遺跡はこの土器が発見された事を契機に、大和町が東京都に報告し、明治大学によって調査が行われることになりました。
縄文人の家の跡が見つかった
昭和41年(1966)2月、現在の西武団地の開発が進みます。その最中です。土器が出てきて東京都に報告し、発掘調査をすることになりました。結果、縄文時代の人が住んでいた家の跡が見つかりました。南北4.8㍍、東西5㍍のほぼ丸い家です。6~7本の柱の穴があり、真ん中に炉がありました。『東大和市史資料編』3は次のように説明します。
「住居中央にある炉は、回りを比較的平らな石で囲んだ「石囲い炉」(いしがこいろ)という種類のものだが、さらに真ん中に土器を埋め込み、炉の機能を高めている。炉に埋められた土器は、縄文時代中期の加曽利E式(かそり)という種類の土器で、この住居が建てられた時期を確定する手がかりとなるものだ。このほか、柱を立てた穴のそばなどから、炉に使われたのと同じ種類の土器が見つかっている。」(p88)
場所は、現在の奈良橋一丁目、湖畔二丁目の堺、西武団地の一角です。
土器が出てきました。
土器のもようから、勝坂式土器と加曽利E式土器で、縄文時代中期の中頃、約5000年~6000年前と判断されました。そして、『東大和市史資料編』3は「遺跡内での二種類の土器の出土のしかたに大きな差はなく、ほぼ同時期に使われていたと考えられている。」としています。
石器もたくさん出ました。
「なんと石ころの多い家だろう!」
と発掘している人がビックリするほどでした。それも目に付くのは多くが下の画像のような石器です。打製石斧(だせいせきふ)とよばれます。
発見された石器について『東大和市史資料編』3は次のように記しています。
「発見された遺物の中では打製石斧がおよそ四分の一を占め、石器だけに限ると実に八割という高い割合を示す。打製石斧の使い方として一般的に言われているのは、土掘り具としての使い方だ。住居とする竪穴を掘る以外にも、日常的に木の根や球根などの採集のために必要だったという考え方だ。このことは、諏訪山遺跡での打製石斧の在り方を裏付ける・・・」(p92)
火を起こす道具も出ました。
画像の右下の穴の開いている石で火をおこしました。
家は全部で11軒あった
この地の縄文人は、地面をまるく掘り込んで床として、中央に炉をつくり、何本かの柱を建てて屋根をかけた家に住みました。縄目の模様のついた土器で煮炊きをしたり、石を焼いて蒸し焼きにしました。まだ稲や麦を栽培することを知らず、狩りと採集を主とする人々であったようです。
そのような人々の使った家が6軒発掘されました。そして、図の一番右側の家は重なっていました。これから大事なことがわかってきました。この遺跡の特徴です。
家が重なっていることは、住んだ時代が違うことを意味します。『東大和市史資料編』3は次のように分析しています。
「集落全体としてほぼ同一の時期に営まれたようだが、ここで問題となるのは第五号及び第六号住居跡が重複して発見されたことだ。少なくともこの二軒が同時に存在することはできず、あらためて六軒を見ると、住居に伴う炉の形の違いから、二つのグループにわけることができた。第二号住居跡、第四号住居跡など掘り込みのある炉の周囲に置いてあった石を抜き取った痕跡のあるグループと、一号住居のように床と同じ高さで石を置き炉のくぼみも浅いグループだ。
ここで両グループの時間差を考えると、例えば第一号住居跡など新しい家をつくるのに、古くなった第二号住居跡の炉の石をリサイクルして使ったという説明が成り立つ。つまり諏訪山の集落は二つの時期にわたって営まれたと考えられるが、土器の共存状況からみて連続した短い期間のことだったと考えるべきだろう。」
さらに周辺の調査をすると、上の図の四角に囲まれたところに6軒(発掘)、その他、北側に(図の上)に5つの炉跡(ろあと)が発見されました。住居址としての発掘は行われませんでしたが家が連なっていたことが推定されます。諏訪山の平らなところ全体が縄文人の家、小さな集落であったようです。
発掘中の話題として「それでは、水はどこから?」との疑問があがりました。「二つ池の周辺で湧き水を利用したのだろう」「貯水池に沈んだ沢まで行ったんだろう」と議論が湧きました。改めて二つ池の歴史的な背景が重くなりました。
諏訪山遺跡の縄文人は諏訪山の峰に家を構えました。上図のように家々が連なっていたことも考えられます。しかし、この人たちは、やがて地球が寒くなってくるとどこかへ移って行きました。縄文時代後期(約4000~3000年前)、晩期(約3000~2400年前)には東大和市にパッタリ人が居なくなります。
パッタリ居なくなって、次に現れるのは古墳時代
長い間、東大和市内に人は留守でした。次に人が現れるのは同じ諏訪山の南麓、二つ池に近いところです。古墳時代です。わずかの家族が定着して、廻田田んぼを開いたようです。
昭和41年(1966)、まだ諏訪山遺跡が確認される前です。この地域にブルドーザーが入り、地面を削った土の中に二つだけ茶碗が混じっていました。幸い、工事の方が取り分けてくれました。連絡があって、すぐに周辺を調べましたがすでに地面は削られ、遺跡や遺物は発見できませんでした。
土器の鑑定を依頼した結果、鬼高式土器とわかり、古墳時代後期・5世紀後半の遺物とされます。現在のところ、これが東大和市唯一古墳時代の生活の跡を示します。
説明がややこしくなりますが、これまで述べてきた諏訪山遺跡はこの土器が発見された事を契機に、大和町が東京都に報告し、明治大学によって調査が行われることになりました。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“諏訪山遺跡(縄文時代中期),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1664.