東大和市に古代からの人が定着する様子

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9法印賢誉の墓碑_正面右側.jpg
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タイトル (Title)

東大和市に古代からの人が定着する様子

詳細 (Description)

 東大和市に古代から中世にかけて人々が定着する様子を追っています。多くの場合、狭山丘陵につくられた谷ッに見られそうです。その中から一例として「廻田谷ッ」(めぐりたやつ)を紹介します。図に記した谷ッは一部です。村山貯水池に沈んだ地域にもそれぞれの地に谷ッがあり、古い集落が成立していました。
 「廻田谷ッ」=「狭山たんぼ」は東大和市湖畔三丁目から狭山三丁目にかけてあります。現在は東邦団地の家々が建設されています。なお、遺跡は鹿島谷ッにも八幡谷ッにも埋もれていることが考えられます。
  昭和33年(1958)大和町の地図による廻田谷ッの状況です。名の通り丘陵の谷間に営まれた、二つ池を水源とする独特の曲がりの形をした水田です。ここに、次の土器によって、古墳時代から中世にかけての家族か或いは一族が住み始めたことが推定されます。
鬼高式土器の発見(諏訪山遺跡・すわやまいせき)
 かっての諏訪山(奈良橋)からの廻田谷ッです。諏訪山一帯は昭和41年(1966)に西武鉄道(株)による住宅団地の造成が行われました。二ッ池は画像右側になります。
 団地造成が始まってまもなく、左側に見える小屋あたりから二つの土器が発見されました。
  ブルドーザーが入り斜面が削られ始めました。
 「茶碗が出てきた」
 と知らせがあって、すっ飛んで行きました。遅かりしで、遺跡のある地面は削られた後でした。ブルドーザーは運転を中止して
 「ここいらを掻いたあとで、土寄せをしたら出てきてよ・・・」
 と小屋の前に土器が二つ並べられていました。ズボンの汚れも気にせず近くを探しました。土器以外の道具や住居址などは確認出来ませんでした。
 それでも、この土器が出たことで、廻田谷ッに水田をつくり生活の基盤を築き始めた人たちが活動していたことがはっきりしました。土器は鬼高式と呼ばれ古墳時代後期・5世紀後半の製作とされます。
 当時の大和町広報(昭和41年5月1日号)は次のように報じました。(諏訪山遺跡は旧石器から古代までの複合遺跡で、縄文時代の遺跡が集中して発掘されました)
 縄文時代の土器、旧石器、そして右下に古墳時代の土器が紹介されています。
廻田谷ッ遺跡(めぐりたやつ)
 次に発見されたのが廻田谷ッ遺跡です。鬼高式土器が出土した所からやや東側で、田んぼにより近くなっています。昭和59年(1984)に予備調査、平成4年(1992)に発掘調査が行われました。
 竪穴式住居址や土器が発見されました。東西3㍍、南北4㍍、東側にカマドがある家の跡でした。さらに西側に、一部だけですが家の跡が見つかりました。この周辺に家族を構成し、或いは小さな集落があったことが推定されます。平安時代後半期(800~900年代)とされます。
 家の跡と同時に、土器が見つかりました。土師器(はじき)と須恵器(すえき)でした。須恵器は隣接市では立派な壺が発見されていますが、東大和市では発見されていません。茶碗に類したものやふた物でした。どれも食事をとる時の茶碗と考えられます。郷土博物館に展示されています。(画像の掲載は郷土博物館の許可を得ています)
 『東大和市史資料編3』ではこれらの土器から、当時の生活を次のように記します。
 「近畿地方では貴族たちがきらびやかな生活をしていた同じころに、狭山丘陵の一角では、縄文時代からそう変わらない竪穴住居で生活していたことになる。発見された遺物からは、必要最小限の家財道具で暮らす姿が浮かび、決して豊かな生活を想像することはできない。」(『東大和市史資料編3』p110~113)
廻田谷ッ東遺跡(めぐりたやつひがし) ※画像は「廻田谷ッ東遺跡」を参照のこと
 平成13年(2001)、さらに東側によったところで、廻田谷ッ東遺跡が発見されました。
  この遺跡は胸をとどろかせました。もしかしたら、中世の遺跡と思わせる跡が見つかったからです。
 丘陵の斜面を削って平地としていて、柱の穴と思われるものがあります。
 貴重な「段切り遺構」? この地域を治めた中世の実力者が開発をした跡とも考えられました。
 やがて土器が発見されました。中世のものであって欲しいとドキドキしました。
 ところが、数ヶ月後の鑑定の結果は、10世紀後半・平安時代のものと考えらるとのことでした。
 まだ周辺に遺跡の可能性がある場所がありますので、そこから、新しい発見があることを願っています。
延寿院・円乗院旧地(えんじゅいん・えんじょういん)
 こうして、人々がこの地に定着しやがて二つ池の周辺、上ノ屋敷に寺院が建立されました。延寿院で、創建年代を平治元年(1159)とします。
 廻田谷ッ遺跡、廻田谷ッ東遺跡に住む人々とともに、この時代に、この地に寺を建てるほどの人々が周辺に生活していたことを証します。
 開山は賢誉法印で、薬師如来を本尊としていたと伝わり、賢誉法印は円乘院に下記墓碑がまつられています。延寿院は慶長12年(1607)8月18日の台風により「坊舎悉く吹き潰され」たことから、現在の地にうつり円乘院となりました。
永仁の板碑他板碑群
 お寺が建てられる一方で、二つ池の南側、狭山丘陵の峰に東大和市最古の板碑がまつられます。
 表面に阿弥陀様(一尊)を表す梵字と永仁二年(1294)の年号が彫られています。人名や供養の内容などは彫られていません。
 発見された場所は、狭山丘陵南麓、二つ池の南、旧水道事務所があった北向きの斜面です。埋納されて発見されました。詳細は別に記します。
集中埋納された板碑
 また、現在の円乘院の近くに、15基の板碑が集中して埋納されていました。『狭山之栞』に記されていました。
 年号が明らかなものは正和5年(1316)~延徳2年(1490)に至る間の10基、170年間にわたるものです。表面の様子は不明です。この期間、丘陵の峰に点々と板碑がまつられ、阿弥陀様に現世と来世の安穏を祈った村人たちが生活していたことがわかります。
 古墳時代末から中世にかけての湖畔・狭山地区の全体像
 鬼高式土器(古墳時代)から、廻田谷ッ遺跡、廻田谷ッ東遺跡、永仁の板碑、板碑の集中埋納と紹介してきました。これらを通じて遺跡の周辺を総合すると古墳時代末から中世にかけての湖畔・狭山地区の全体像が浮かんできます。
 この時代、人々は狭山丘陵の刻んだ谷ッを中心にして、水田を開き、畑を耕して集落をつくってきたことが推測されます。
 天正19年(1591)、徳川家康の関東入府とともに、家康の直属家臣が狭山丘陵周辺にも配属されてきました。東大和市域では、いきなり家臣の名前、領地と共に、芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水村の村名が現れます。
 どのような経過で、これらの村名が付けられたのかは不明です。古墳時代から長い間かかって形成されてきた散在する集落が、家臣に与えられる領地の石数に合致するように区切られた(村切り)ものと考えます。
 廻田谷ッ地域の一つの例を紹介しました。他の地域の村の形成過程も明らかにしたいと願います

Item Relations

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Collection

Citation

“東大和市に古代からの人が定着する様子,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1671.