清水庚申神社
タイトル (Title)
清水庚申神社
詳細 (Description)
所在地 東大和市清水3丁目869番地
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路
東大和市郷土資料 昭和49年(1974)9月20日指定
指定理由 近世中期の所領関係がわかる地名が刻まれた庚申塔
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路に、現在は庚申神社としてまつられています。
かっては、すぐ傍らに大きなケヤキの木が茂り、水の涸れない深い井戸があったと伝えられます。
旧道を行く旅人達の目印であり、木影と井戸は憩いの場であったことが考えられます。社の扉には草鞋がかけられ、無事を祈願したことが偲ばれます。
社の中には二体の庚申塔があります。右側の塔は東大和市郷土資料として指定されています。
庚申塔をまつる際に、塚を築いてその上に建立したとの経緯を刻む貴重な塔です。
左側の塔
表面が荒れていて、正面の彫像がわずかにたどれます。造立者、年号などは不明です。古い調査(1960年代)で右側面に「山口領宅部村」と刻まれていることが報告されています。
村山貯水池が建設されるとき、湖底に沈む杉本の地域(杉本家、杉本坂)からこの地に移されたとされます。
江戸時代「宅部村」が存在しましたが、それは隣接する内堀地域で、杉本地域は含まれていません。庚申塔所在地は後ヶ谷村か上宅部が考えられます。
或いは内堀地域からの移設も考えられます。旧所在地と村名との関係はこの地域の歴史の謎を残しています。
右側の塔 享保13年(1728)
塔の造立経過を詳しく刻んでいます。
正面に、青面金剛像、日月、三猿、像の左側に「武州多摩郡山口領 清水村」、同右側に「享保十三戊辰歳九月吉日」
左側面に
厚く青面金剛を信仰する村人が、五年間信仰を続け、三十季の結願を迎えたので、香華・燈明を捧げ、擁護を祈り、塚を築いて安置する
鶴亀の長寿や安楽とともに近隣ならびに四海泰平を願う。(意訳しました)
右側に 大聖山 持寳院 法印慶傅
台座に 宮奈戸、杉崎、野口、五十嵐、大久保、原、田口、池谷などの名前
が刻まれています。いずれも、狭山丘陵南麓の清水地域の旧家です。
この像から、
・60日ごとに廻ってくる庚申の日に、狭山丘陵南麓の清水地域で講を開き、
・5年間継続した。その結願として、享保13年(1728)9月に庚申塔を造立した。
・塚を築き、そこに、塔をまつった。
ことがわかります。
これにより、現在は平地に近い庚申神社の場は三角地に塚が築かれ、その上に庚申塔がまつられていたことが辿れます。まさに庚申塔造立、庚申塚築造の由来がわかります。
東大和市内には奈良橋、蔵敷に庚申塚がありますが、それらの塚の築かれた経緯が類推できます。
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路
東大和市郷土資料 昭和49年(1974)9月20日指定
指定理由 近世中期の所領関係がわかる地名が刻まれた庚申塔
高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路に、現在は庚申神社としてまつられています。
かっては、すぐ傍らに大きなケヤキの木が茂り、水の涸れない深い井戸があったと伝えられます。
旧道を行く旅人達の目印であり、木影と井戸は憩いの場であったことが考えられます。社の扉には草鞋がかけられ、無事を祈願したことが偲ばれます。
社の中には二体の庚申塔があります。右側の塔は東大和市郷土資料として指定されています。
庚申塔をまつる際に、塚を築いてその上に建立したとの経緯を刻む貴重な塔です。
左側の塔
表面が荒れていて、正面の彫像がわずかにたどれます。造立者、年号などは不明です。古い調査(1960年代)で右側面に「山口領宅部村」と刻まれていることが報告されています。
村山貯水池が建設されるとき、湖底に沈む杉本の地域(杉本家、杉本坂)からこの地に移されたとされます。
江戸時代「宅部村」が存在しましたが、それは隣接する内堀地域で、杉本地域は含まれていません。庚申塔所在地は後ヶ谷村か上宅部が考えられます。
或いは内堀地域からの移設も考えられます。旧所在地と村名との関係はこの地域の歴史の謎を残しています。
右側の塔 享保13年(1728)
塔の造立経過を詳しく刻んでいます。
正面に、青面金剛像、日月、三猿、像の左側に「武州多摩郡山口領 清水村」、同右側に「享保十三戊辰歳九月吉日」
左側面に
厚く青面金剛を信仰する村人が、五年間信仰を続け、三十季の結願を迎えたので、香華・燈明を捧げ、擁護を祈り、塚を築いて安置する
鶴亀の長寿や安楽とともに近隣ならびに四海泰平を願う。(意訳しました)
右側に 大聖山 持寳院 法印慶傅
台座に 宮奈戸、杉崎、野口、五十嵐、大久保、原、田口、池谷などの名前
が刻まれています。いずれも、狭山丘陵南麓の清水地域の旧家です。
この像から、
・60日ごとに廻ってくる庚申の日に、狭山丘陵南麓の清水地域で講を開き、
・5年間継続した。その結願として、享保13年(1728)9月に庚申塔を造立した。
・塚を築き、そこに、塔をまつった。
ことがわかります。
これにより、現在は平地に近い庚申神社の場は三角地に塚が築かれ、その上に庚申塔がまつられていたことが辿れます。まさに庚申塔造立、庚申塚築造の由来がわかります。
東大和市内には奈良橋、蔵敷に庚申塚がありますが、それらの塚の築かれた経緯が類推できます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“清水庚申神社,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1700.