さあ、畑をつくるぞ!

1現在の野火止用水の様子.jpg
2谷ッ集落では容易に畑を増やせません_芋窪西谷ッ.jpg
3武蔵野の原野を新しく畑に変えた年代.jpg
4_2006年3月19日_東大和市に舞った赤っ風 .jpg

タイトル (Title)

さあ、畑をつくるぞ!

詳細 (Description)

「すげーなー」
「多摩川の水だんべ・・・」
 野火止用水に水が流れました。承応4年(1655)3月20日です。
 茅(かや)や茨(いばら)が背中より高い原野の中
 たった一筋の水路を熱く追います。
「そうだ、ここまで、畑にすんべえや」
「たしかに。そうすりゃ孫子(まごこ)も食えるぞ」
「ちげえねえ、今のままじゃー、畑は増やせねえしな」
「おらも覚悟を決めた、やんぞー!」
 大急ぎで「新田開発」(しんでんかいはつ)の許可をとったようです。
 芋窪の旧家に検地帳があります。 
 「万治元年(1658)八月
   立野(たての)
  一、壱反三畝六歩
             太郎左衛門他二十四名」
 と記しています。
 芋窪村の村人達が、万治元年(1658)8月に、立野地域を開発して、1人当たり1反3畝6歩(約四百坪・1300㎡)ずつ、均等に配分したことがわかります。場所は、現在の新青梅街道の北側になります。野火止用水が引かれて3年後です。
 同じように、狭山丘陵の懐に家々を構える村人達が、せっせと原野を耕して、上の図のように空堀川を超えて野火止用水際まで畑に変えました。
 高木村では寛文9年(1669)に、街道向 中原(なかはら) 
 延宝2年(1674)に、堀端 堀際 後ヶ谷戸境(うしろがやとさかい)
 後ヶ谷村でも寛文9年(1669)に、砂の台、江戸街道向
 延宝2年(1674)に堀際、水道際
と記録されています。
 野火止用水が開鑿されて20年後には堀際まで開墾が進んだことがわかります。江戸日本橋に新田開発を奨励する高札が掲げられたのは、享保7年(1722)です。その時には東大和市域の村々は、もう、すっかり開発が終わっていました。
赤土の中の開墾
 「きょうは、神棚にゴボウの種がまけんぞ」
 「弁当も真っ赤さ」
 武蔵野の原野は30㌢ほど黒土が覆い、すぐ下は赤土でした。その掘り起こしたところに風が吹きます。
 昭和の初めでも、赤土が舞い上がり、目を開けて居られなかったと伝えられます。
 開墾した畑は「吹っ飛び田地」(ふっとびでんち)と呼ばれたと『東大和のよもやまばなし』は語ります。
「もうちっとばかり、やっちゃうべー」
「つれーけんど、しょうがんめー」
 村人達は黙々と開墾の鍬を振りました。
 出来上がった「畑」はあまり作物がとれず、「下々畑」に位置づけられました。
 だから、たくさんの肥料が必要でした。
 「江戸へ出て、干鰯(ほしか)を買ってこなくちゃしょうがねえな・・・」

Item Relations

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Collection

Citation

“さあ、畑をつくるぞ!,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1716.