天明の打ち毀し(武州村山騒動)4
タイトル (Title)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)4
詳細 (Description)
騒動の背景 (天明4年・1784)
「良くもやってくれたよな!」
「ありがてえもんだ」
「これで、ちったー薬がきいたんべ」
「だけんど、これから良くなんべーか?」
「そうよなー」
村の人々は複雑な気持ちではなかったでしょうか。
1打ち毀にあった家々
打ち毀しにあった家々は、肥料、収穫物、油の売買などで、村人と密接に関わりを持っていました。
しかし併せて持つ「質業」は複雑でした。
・生活費が必要で、夏が終わると、蚊帳を来年まで預かったり、
・種代が払えなくて、収穫後の作物で支払いする道をひらいたり
して、村人に喜ばれました。しかし、
・結果的に土地が増加、集中しています。
・借金に追われて、土地を失った村人も多かったことを示します。
今回、打ち毀しにあった家々はこれらの両面を持っていたようです。
①中藤村
・文右衛門(山王前 穀類・油・肥料等の買売、酒造業・質屋を兼ねる在方商人・豪商)
・山釣五衛門(山王前の親戚 商品・質物などの保管所)
・中藤村名主・佐兵衛(丸山台・村人の採草地、中藤新田・国分寺市内の開発)
・中藤村佐兵衛組・百姓代与七(文中には名が出ていない。家屋は毀されず、取り出した建具などが毀された)
②高木村
・高木村名主(私領)・庄兵衛(米穀類・油等の売買、質屋を兼ねる在方商人)
2打ち毀した村人
一方の打ち毀しに参加した村人です。
資料はほとんど見当たりませんが『大和町史研究』(8p29)に、辻 光子氏が次のように記しています。
・三ケ島の三郎衛門は田畑三反八畝十六歩を所有する百姓である
・打ち毀しに参加して、度重なる詮索を受け、村人により保護されていた
・しかし、遂に、人別改めなどにより、青梅で捕らえられた
・居宅及び田畑三反八畝十六歩を入札売し、
・親類預けとなった。
・彼は困窮の村々のためにと参加したのにも拘らず、
・此度は村内の「不ため」になってしまったと嘆き記している(三ケ島加藤家文書)
営農面積の三反八畝は、東大和市周辺では、一般的な「三反百姓」と呼ばれ、農業と生活が成り立つギリギリでした。
打ち毀しに参加した村人達はこの人々であったことが推定されます。
3村の状況
(1)江戸近郊の特殊経済
・狭山丘陵周辺の村々の農業は水田が少なく畑作を主としました。
・年貢は、金納の形が取られました。
・また、土地が痩せていたことから、多くの肥料を必要としました。
・落ち葉や武蔵野の秣場による草などの有機肥料では不足し、収穫量を増やすため、
・糠(ぬか)、干鰯(ほしか)などの金肥を投入する方策が取られました。
このために、村人達は何らかの方法で現金を必要としました。
・江戸市中から35㌔圏に位置するところから、
・村人は薪・炭などを江戸市中に運び、駄賃稼ぎをしました。
このようなことから、江戸周辺に特殊な経済状況が生まれていました。
(2)油などの生活用品、金肥の代価は翌年の生産物で精算→金融・借財の発生
・現金の収入源が限られた村人達です。
・日常生活に要する油や衣料、肥料の購入代金は、生産物との換金により決済されました。
・凶作が続くと、生産物が減少し、決済が困難となりました。
・ここに、取引の仲介人である商人と貸借関係が生じました。
・借財が増え、村人達と商人との間に特殊な関係を生みました。
(3)質・高利貸しの発生
・商人は商品取引の関係だけでなく、質屋を兼務する状況になりました。
(4)米価・肥料の値上げ、価格操作
・天明年間、凶作が続き、米価が値上がりし、
・それに連れて生活物資、肥料が値上がりしました。
・肥料商兼金融業を営む者の中には、
・有利なように買い占め、売り惜しみや価格操作を行うことが見られるようになりました。
(5)貧農と豪農・商人
・この過程で生じたのが、貧農とその対極にある豪農、有力商人でした。
・村の中に多くの貧農と数少ない「豪農」「身元よろしき商人」が存在することになりました。
(6)凶作が続き、事態が先鋭化→怨嗟(えんさ)、実力行使
・明和から天明にかけて、天候が不順で、凶作が続きました。
・村人は、決済ばかりか、日常の夫食に事欠き、生活が破壊されるほどの困窮を生みました。
この時点で、生じたのが今回の実力行使と思われます。
ただし、東大和市内の芋窪村で14名も捕らえられたのは、芋窪新田(現立川市内)との関係がありそうです
様々な資料が発見されて、全容が明らかになることを願います。
「良くもやってくれたよな!」
「ありがてえもんだ」
「これで、ちったー薬がきいたんべ」
「だけんど、これから良くなんべーか?」
「そうよなー」
村の人々は複雑な気持ちではなかったでしょうか。
1打ち毀にあった家々
打ち毀しにあった家々は、肥料、収穫物、油の売買などで、村人と密接に関わりを持っていました。
しかし併せて持つ「質業」は複雑でした。
・生活費が必要で、夏が終わると、蚊帳を来年まで預かったり、
・種代が払えなくて、収穫後の作物で支払いする道をひらいたり
して、村人に喜ばれました。しかし、
・結果的に土地が増加、集中しています。
・借金に追われて、土地を失った村人も多かったことを示します。
今回、打ち毀しにあった家々はこれらの両面を持っていたようです。
①中藤村
・文右衛門(山王前 穀類・油・肥料等の買売、酒造業・質屋を兼ねる在方商人・豪商)
・山釣五衛門(山王前の親戚 商品・質物などの保管所)
・中藤村名主・佐兵衛(丸山台・村人の採草地、中藤新田・国分寺市内の開発)
・中藤村佐兵衛組・百姓代与七(文中には名が出ていない。家屋は毀されず、取り出した建具などが毀された)
②高木村
・高木村名主(私領)・庄兵衛(米穀類・油等の売買、質屋を兼ねる在方商人)
2打ち毀した村人
一方の打ち毀しに参加した村人です。
資料はほとんど見当たりませんが『大和町史研究』(8p29)に、辻 光子氏が次のように記しています。
・三ケ島の三郎衛門は田畑三反八畝十六歩を所有する百姓である
・打ち毀しに参加して、度重なる詮索を受け、村人により保護されていた
・しかし、遂に、人別改めなどにより、青梅で捕らえられた
・居宅及び田畑三反八畝十六歩を入札売し、
・親類預けとなった。
・彼は困窮の村々のためにと参加したのにも拘らず、
・此度は村内の「不ため」になってしまったと嘆き記している(三ケ島加藤家文書)
営農面積の三反八畝は、東大和市周辺では、一般的な「三反百姓」と呼ばれ、農業と生活が成り立つギリギリでした。
打ち毀しに参加した村人達はこの人々であったことが推定されます。
3村の状況
(1)江戸近郊の特殊経済
・狭山丘陵周辺の村々の農業は水田が少なく畑作を主としました。
・年貢は、金納の形が取られました。
・また、土地が痩せていたことから、多くの肥料を必要としました。
・落ち葉や武蔵野の秣場による草などの有機肥料では不足し、収穫量を増やすため、
・糠(ぬか)、干鰯(ほしか)などの金肥を投入する方策が取られました。
このために、村人達は何らかの方法で現金を必要としました。
・江戸市中から35㌔圏に位置するところから、
・村人は薪・炭などを江戸市中に運び、駄賃稼ぎをしました。
このようなことから、江戸周辺に特殊な経済状況が生まれていました。
(2)油などの生活用品、金肥の代価は翌年の生産物で精算→金融・借財の発生
・現金の収入源が限られた村人達です。
・日常生活に要する油や衣料、肥料の購入代金は、生産物との換金により決済されました。
・凶作が続くと、生産物が減少し、決済が困難となりました。
・ここに、取引の仲介人である商人と貸借関係が生じました。
・借財が増え、村人達と商人との間に特殊な関係を生みました。
(3)質・高利貸しの発生
・商人は商品取引の関係だけでなく、質屋を兼務する状況になりました。
(4)米価・肥料の値上げ、価格操作
・天明年間、凶作が続き、米価が値上がりし、
・それに連れて生活物資、肥料が値上がりしました。
・肥料商兼金融業を営む者の中には、
・有利なように買い占め、売り惜しみや価格操作を行うことが見られるようになりました。
(5)貧農と豪農・商人
・この過程で生じたのが、貧農とその対極にある豪農、有力商人でした。
・村の中に多くの貧農と数少ない「豪農」「身元よろしき商人」が存在することになりました。
(6)凶作が続き、事態が先鋭化→怨嗟(えんさ)、実力行使
・明和から天明にかけて、天候が不順で、凶作が続きました。
・村人は、決済ばかりか、日常の夫食に事欠き、生活が破壊されるほどの困窮を生みました。
この時点で、生じたのが今回の実力行使と思われます。
ただし、東大和市内の芋窪村で14名も捕らえられたのは、芋窪新田(現立川市内)との関係がありそうです
様々な資料が発見されて、全容が明らかになることを願います。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“天明の打ち毀し(武州村山騒動)4,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1724.