地頭の乱行と箱訴

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タイトル (Title)

地頭の乱行と箱訴

詳細 (Description)

 「泣く子も黙る地頭」の言葉は、江戸末期の多摩郡でも生きていました。
 東大和市では清水村が渦中にあり、その概要が記録に残されています。
明治維新の50年前、この時代の地頭支配の状況が垣間見えますので紹介します。 文政2年(1819)2月2日、地頭・浅井氏の乱行に対し、清水村の名主が幕府の設けた目安箱に直訴しました。いわゆる「箱訴」事件です。
よくもこんな事が罷り通ったと、信じられないことですが、この地頭は、同時に、日野領下田村、中和田村、寺方村を知行地としていたので、そちらにも記録があるかもしれません。
訴えの内容は、次の通り大きく二つあります。
1 無尽頼母子講(むじんよりもしこう)
 文化14年(1817)6月、地頭が無尽頼母子講を作った。そして、支配地の名主たちに出金を申し付けた。
さらに、江戸表でも有縁の者やゆかりのある者たちに勧めた。しかし、目途額に不足した。そこで、名主たちにさらに出金を申し付けた。それは、非道に余るばかりの額であった。さらに、なんと、当選した者に金を渡さず、自分で使ってしまった。
 同年10月、名主たちは、2回目は自分たちの出資を半分とすることを申し出た。地頭は承知せず、前回と同じ金高を差し出せと申し付けた。無体なこととは思いながらも是非なく差し出したところ、これまた、払い戻しをせず自分で使い果たしてしまった。
このような無理な申し付けに、名主共は田畑を質入れして差し出して、甚だ難儀をしている。中には、親や妻子を養い難くなった者もあり、実に非道の極みである。
2 年貢米金納に関わる難題
文化14年11月、地頭は支配地である清水村名主清左衛門、下田村名主与兵衛に対して、次のように云ってきた。年貢米(当時は金納)について、お前達が提出した皆済目録の額は江戸町方の米相場と相違している(実際の米相場と皆済目録の相場が違っている)。その差額はお前達が横領しているに違いない。
 だから、中和田村の初五郎、清右衛門の二人を八王子まで行かせて、相場を調べさせた。その結果として、横領分として両人に20両ずつ支払えと申付けられた。しかし、実は、地頭が米屋に偽りの書付を作らせたものである。
両人は早速地頭のところに行って、
 「そのような事実は御座居ません、今一度お調べ願いたい」と申上げたところ、
 「地頭に対して不敬の挨拶である、この上は金は要らぬから一命を取上げる」
 と、すでに切り掛らんばかりだったので、一命には替え難く思い、是非なく20両ずつ差出すことを承知した。
 地頭は機嫌が直り、勝手に帰村せよとの申付けに、早速帰村のうえ田畑を質入れし山林まで売払って差出した。
両名とも一向覚えもない難題を申しかけられ、乱心同様の地頭であるから理非の差別も無く、もし切殺されて、むげに一命を失うのも詮ないことと、是非なく金を差出したものの、事実のお調べもなく金子を取立てられ、追々、困窮相募り甚だ難儀をしている。このような無慈悲のことが、度々である。
とする内容です。まだ、これ以外に、いくつかの実例を挙げていますが長くなるので省略します。
訴えの結果
文政2年(1819)4月21日、地頭に対して「所行よろしからず候段、隠居」との処分が下されました。
名主達にとっては不満が残ったかも知れませんが、目安箱の制度が機能していることがせめてもの救いです。

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“地頭の乱行と箱訴,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1726.