黒船来航と村
タイトル (Title)
黒船来航と村
詳細 (Description)
泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん 蒸気船)
たった四はいで夜も寝られず
黒船来航を機に江戸市中で、はやったという川柳です。上喜撰はお茶で、4はいと4隻がかけられて、当時の皮肉な状況を思い起こさせます。
嘉永6年(1853)6月3日です。伊豆半島沖に、江戸湾警備の物見の注進、追いすがる日本の小型船を尻目にして、巨大な4隻の黒船が姿を現しました。蒸気を吐きながら帆船を引き連れて、午後4時、浦賀沖を通過、観音崎の沖に碇を降ろしました。
アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが引き連れる
旗艦サスケハナ号と帆走軍艦サラトガ号
蒸気軍艦ミシシッピ号と帆走軍艦プリマス号です。
幕府はすでにオランダから「別段風説書」(べつだんふうせつがき)で、修好通商を求めるフィルモア・アメリカ大統領の親書を持ってペリ-が来航するとの情報を受けていたとされます。しかし、いざ目の前の現実となると、さぞ、慌てふためいたと想像されます。
その中で、情報は驚くほど早く村に伝わります。
◎引又村(ひきまたむら 志木市)の名主星野半右衛門は、6月3日、「両三日已前より浦賀沖に異国船相見候由にて、川越様より早飛脚(はやびきゃく)度々(たびたび)通り、・・・」(『志木市史』上p655)
◎小野路村(おのじむら 町田市小野路町)の名主小島鹿之助は「6月8日、浦賀沖に異国船数艘参り、江戸表は大変の由、承り候」
◎中藤村(なかとうむら 武蔵村山市)の指田氏(さしだし)は「6月11日、雷。当月、異国黒船相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず。諸色高直(しょしきこうじき 物価があがる)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く織る者難渋す」(『指田日記』)
と日記に書きました。恐るべき情報伝達網です。
多摩地方を治めていた代官江川太郎左衛門は、6月3日夕刻、韮山で異国船来航の知らせを受けたとされます。江戸の江川事務所から東大和市域の村々にどのように伝えられたのか調べていますがまだつかめていません。名主が親しく交流していたことから一定の情報が届けられていたと推測します。
江戸湾の固めと川越藩
ペリーが来航した時、江戸湾の防衛は
・相模側に川越藩・彦根藩
・房総側に忍藩(おしはん)・会津藩を配置する
「御固(おかため)四家体制」をとり、さらに、
・浦賀周辺を浦賀奉行所が受け持つという体制をとっていました。各藩は先にあげた図のように受け持ち区域を定めていました。
三浦半島 走水・観音崎が川越藩
栗濱(久里浜)・野比・松輪・三崎が彦根藩
房総半島 富津より竹ケ岡にいたるまでが会津藩
大房より洲崎にいたる間が忍藩
引又の星野名主がペリー来航について即日情報を得ることができたのは川越藩の早飛脚からとしています。川越藩は三浦半島の東南部に拠点を置き、台場を築き砲台を備えていました。江戸湾から隅田川、荒川の川伝いに引又(志木)を通って川越まで通信網が発達していたようです。
幕府とペリーの交渉
幕府とペリーの交渉が始まります。
・6月4日、サスケハナ艦上でペリーと与力中島喜三郎助、香山栄左衛門(かやま)が面接、会談しました。
・ペリーは持参した大統領親書の受け取りを要求します。
・香山は長崎行きを主張、ペリーは拒否しました。
・6月6日、ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて幕府を威嚇(いかく)します。
・6月6日~7日、幕府は、要職者が総登城して、深夜まで評議を続けました。結果、開港の是非に答えず、ペリーの申し入れの親書の受領のみを決定します。
ペリーは浦賀での手交を主張しました。
◎この間、江戸町民は避難場所を探し、武士は武具屋・馬具屋に殺到して価格が2~3倍に上がったとされます。
幕府は久里浜に接待所をつくり、親書受取を決めます。
・6月9日、ペリーは久里浜に上陸、大統領親書を浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ いずのかみうじよし)、井戸岩見守弘道(いど いわみのかみひろみち)が受け取りました。
国書の受理式には、江戸湾の海防を担当する、忍(おし)、川越、彦根、会津の譜代四藩の武装兵300余名が立ち会っています。(『所沢市史』上p797)
幕の後ろでしょうか?
一旦、落着かに見えましたが、どうして、どうしてペリーはしたたかでした。
・6月10日、ペリーは江戸湾奥深く進入し、測量を継続しました。
幕府は抗議を続けますが、翌11日も測量が行われました。国書受取の場を知るためとの理由でした。
・6月12日、ペリーは親書の回答受取りのため明春に再来することを告げ、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。
台場建設を決定
ペリーが去った後
◎幕府は米国大統領親書の翻訳と対外情勢の分析、対応に追われます。
・6月19日、江川太郎左衛門が勘定吟味役格に任命され、海防の会議に参画することになります。
江川は若年寄本田忠徳(ただのり)らと江戸湾防御のための検分をします。
◎老中阿部正弘は思わぬ行動に出ました。
・7月1日、老中阿部正弘は米国大統領親書を諸大名に示し、意見を求めました。
これまでに前例がなく、幕政の大転換と評されます。
・7月3日、同様に、将軍御目見以上の幕吏に諮問。
・7月3日、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)に海防について意見を求め、海防参与に任命しました。
・7月8日、徳川斉昭が海防の大本に関し意見10条を建議しました。
など、次々と海防に関する動きが起こりました。
はっきりしたのは、幕府の反対にもかかわらず、ペリーが江戸湾に侵入して測量するに至って、「御固四家体制」では限界があることでした。江戸湾内への防衛施設の整備が課題となりました。
そこで、積極的に提案されたのが、台場建設でした。東大和市はここから関係が出てきます。
たった四はいで夜も寝られず
黒船来航を機に江戸市中で、はやったという川柳です。上喜撰はお茶で、4はいと4隻がかけられて、当時の皮肉な状況を思い起こさせます。
嘉永6年(1853)6月3日です。伊豆半島沖に、江戸湾警備の物見の注進、追いすがる日本の小型船を尻目にして、巨大な4隻の黒船が姿を現しました。蒸気を吐きながら帆船を引き連れて、午後4時、浦賀沖を通過、観音崎の沖に碇を降ろしました。
アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが引き連れる
旗艦サスケハナ号と帆走軍艦サラトガ号
蒸気軍艦ミシシッピ号と帆走軍艦プリマス号です。
幕府はすでにオランダから「別段風説書」(べつだんふうせつがき)で、修好通商を求めるフィルモア・アメリカ大統領の親書を持ってペリ-が来航するとの情報を受けていたとされます。しかし、いざ目の前の現実となると、さぞ、慌てふためいたと想像されます。
その中で、情報は驚くほど早く村に伝わります。
◎引又村(ひきまたむら 志木市)の名主星野半右衛門は、6月3日、「両三日已前より浦賀沖に異国船相見候由にて、川越様より早飛脚(はやびきゃく)度々(たびたび)通り、・・・」(『志木市史』上p655)
◎小野路村(おのじむら 町田市小野路町)の名主小島鹿之助は「6月8日、浦賀沖に異国船数艘参り、江戸表は大変の由、承り候」
◎中藤村(なかとうむら 武蔵村山市)の指田氏(さしだし)は「6月11日、雷。当月、異国黒船相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず。諸色高直(しょしきこうじき 物価があがる)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く織る者難渋す」(『指田日記』)
と日記に書きました。恐るべき情報伝達網です。
多摩地方を治めていた代官江川太郎左衛門は、6月3日夕刻、韮山で異国船来航の知らせを受けたとされます。江戸の江川事務所から東大和市域の村々にどのように伝えられたのか調べていますがまだつかめていません。名主が親しく交流していたことから一定の情報が届けられていたと推測します。
江戸湾の固めと川越藩
ペリーが来航した時、江戸湾の防衛は
・相模側に川越藩・彦根藩
・房総側に忍藩(おしはん)・会津藩を配置する
「御固(おかため)四家体制」をとり、さらに、
・浦賀周辺を浦賀奉行所が受け持つという体制をとっていました。各藩は先にあげた図のように受け持ち区域を定めていました。
三浦半島 走水・観音崎が川越藩
栗濱(久里浜)・野比・松輪・三崎が彦根藩
房総半島 富津より竹ケ岡にいたるまでが会津藩
大房より洲崎にいたる間が忍藩
引又の星野名主がペリー来航について即日情報を得ることができたのは川越藩の早飛脚からとしています。川越藩は三浦半島の東南部に拠点を置き、台場を築き砲台を備えていました。江戸湾から隅田川、荒川の川伝いに引又(志木)を通って川越まで通信網が発達していたようです。
幕府とペリーの交渉
幕府とペリーの交渉が始まります。
・6月4日、サスケハナ艦上でペリーと与力中島喜三郎助、香山栄左衛門(かやま)が面接、会談しました。
・ペリーは持参した大統領親書の受け取りを要求します。
・香山は長崎行きを主張、ペリーは拒否しました。
・6月6日、ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて幕府を威嚇(いかく)します。
・6月6日~7日、幕府は、要職者が総登城して、深夜まで評議を続けました。結果、開港の是非に答えず、ペリーの申し入れの親書の受領のみを決定します。
ペリーは浦賀での手交を主張しました。
◎この間、江戸町民は避難場所を探し、武士は武具屋・馬具屋に殺到して価格が2~3倍に上がったとされます。
幕府は久里浜に接待所をつくり、親書受取を決めます。
・6月9日、ペリーは久里浜に上陸、大統領親書を浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ いずのかみうじよし)、井戸岩見守弘道(いど いわみのかみひろみち)が受け取りました。
国書の受理式には、江戸湾の海防を担当する、忍(おし)、川越、彦根、会津の譜代四藩の武装兵300余名が立ち会っています。(『所沢市史』上p797)
幕の後ろでしょうか?
一旦、落着かに見えましたが、どうして、どうしてペリーはしたたかでした。
・6月10日、ペリーは江戸湾奥深く進入し、測量を継続しました。
幕府は抗議を続けますが、翌11日も測量が行われました。国書受取の場を知るためとの理由でした。
・6月12日、ペリーは親書の回答受取りのため明春に再来することを告げ、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。
台場建設を決定
ペリーが去った後
◎幕府は米国大統領親書の翻訳と対外情勢の分析、対応に追われます。
・6月19日、江川太郎左衛門が勘定吟味役格に任命され、海防の会議に参画することになります。
江川は若年寄本田忠徳(ただのり)らと江戸湾防御のための検分をします。
◎老中阿部正弘は思わぬ行動に出ました。
・7月1日、老中阿部正弘は米国大統領親書を諸大名に示し、意見を求めました。
これまでに前例がなく、幕政の大転換と評されます。
・7月3日、同様に、将軍御目見以上の幕吏に諮問。
・7月3日、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)に海防について意見を求め、海防参与に任命しました。
・7月8日、徳川斉昭が海防の大本に関し意見10条を建議しました。
など、次々と海防に関する動きが起こりました。
はっきりしたのは、幕府の反対にもかかわらず、ペリーが江戸湾に侵入して測量するに至って、「御固四家体制」では限界があることでした。江戸湾内への防衛施設の整備が課題となりました。
そこで、積極的に提案されたのが、台場建設でした。東大和市はここから関係が出てきます。
Item Relations
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Collection
Citation
“黒船来航と村,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1730.