四ッ街道の馬頭観音
タイトル (Title)
四ッ街道の馬頭観音
詳細 (Description)
現状は都市計画道路の新設により変化をしていますが、古い交差点があります。芋窪街道と地元で、よこ街道・四ッ街道(江戸街道の横にあるため)と呼ぶ江戸時代の広域道路が交差する西北角です。交差点が「四ッ街道の交差点」と呼ばれ、ここに紹介する馬頭観音がまつられています。
・東大和市内で最も背が高く
・蔵敷庚申塚、芋窪林堂前の馬頭様とともに街道筋に今も原形を保つ
貴重な馬頭様です。
正面
塔身の高165.0㌢、巾33.0㌢、厚21.5㌢ 二重の台石
上部に青面金剛 三面六臂像
中央に馬頭観音 両脇に国土安全
右側面 文化元年(1804)甲子年十一月吉日
台石の講中名
台石は二段になっていますが上段に関係者の名前が刻まれています。
上段の台石正面に
武州多摩郡 芋久保村講中 尾又七郎左ヱ門
世話人 石井儀兵ヱ 願主 木村七郎右ヱ門
と芋窪村(芋久保村)に講が形成されていたことがわかります。
また、その関係者の名前が彫られています。
正面上部
三面六臂座像(さんめんろっぴ)
左右第一手 根本印
右二手 施願印 右三手 斧
左二手 羂索(けんさく) 左三手 斧
もう一つの馬頭様
四ッ街道には、もう一体の馬頭観音石塔がまつられています。
残念ですが、上部が欠け詳細は不明です。残された「観世音」の文字から馬頭観音と推測しています。
四ッ街道馬頭観音の街道位置関係
四ッ街道は江戸時代中藤村(武蔵村山市)方面から江戸街道に出て、江戸へ向かう主要な道筋でした。
下図の通り、中藤村から奈良橋庚申塚を経て奈良橋庚申塚交差点で江戸街道と合流します。
また、芋窪から立川・府中方面への主要街道である芋窪街道と交差して居ました。
馬頭観音のまつられる場は、この街道筋を往来する村人達にとって主要な目印であり、休憩場所であったと考えられます。
更に、奈良橋庚申塚を経て、江戸方面に向かうと高木に、文政11年(1828)の馬頭観音がまつられていました。恐らく、さらに、狭山、清水といずれかの地にまつられ、九道の辻に出たものと推定されます。
奈良橋庚申塚の馬頭様は雲性寺境内へ、高木の馬頭様は高木神社前に移され、東大和市内ではこの四ッ街道と蔵敷庚申塚、林堂前の馬頭様が元位置にまつられています。それぞれ特徴があり、古道の道筋を辿ってお参りするのが楽しみです。
・東大和市内で最も背が高く
・蔵敷庚申塚、芋窪林堂前の馬頭様とともに街道筋に今も原形を保つ
貴重な馬頭様です。
正面
塔身の高165.0㌢、巾33.0㌢、厚21.5㌢ 二重の台石
上部に青面金剛 三面六臂像
中央に馬頭観音 両脇に国土安全
右側面 文化元年(1804)甲子年十一月吉日
台石の講中名
台石は二段になっていますが上段に関係者の名前が刻まれています。
上段の台石正面に
武州多摩郡 芋久保村講中 尾又七郎左ヱ門
世話人 石井儀兵ヱ 願主 木村七郎右ヱ門
と芋窪村(芋久保村)に講が形成されていたことがわかります。
また、その関係者の名前が彫られています。
正面上部
三面六臂座像(さんめんろっぴ)
左右第一手 根本印
右二手 施願印 右三手 斧
左二手 羂索(けんさく) 左三手 斧
もう一つの馬頭様
四ッ街道には、もう一体の馬頭観音石塔がまつられています。
残念ですが、上部が欠け詳細は不明です。残された「観世音」の文字から馬頭観音と推測しています。
四ッ街道馬頭観音の街道位置関係
四ッ街道は江戸時代中藤村(武蔵村山市)方面から江戸街道に出て、江戸へ向かう主要な道筋でした。
下図の通り、中藤村から奈良橋庚申塚を経て奈良橋庚申塚交差点で江戸街道と合流します。
また、芋窪から立川・府中方面への主要街道である芋窪街道と交差して居ました。
馬頭観音のまつられる場は、この街道筋を往来する村人達にとって主要な目印であり、休憩場所であったと考えられます。
更に、奈良橋庚申塚を経て、江戸方面に向かうと高木に、文政11年(1828)の馬頭観音がまつられていました。恐らく、さらに、狭山、清水といずれかの地にまつられ、九道の辻に出たものと推定されます。
奈良橋庚申塚の馬頭様は雲性寺境内へ、高木の馬頭様は高木神社前に移され、東大和市内ではこの四ッ街道と蔵敷庚申塚、林堂前の馬頭様が元位置にまつられています。それぞれ特徴があり、古道の道筋を辿ってお参りするのが楽しみです。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“四ッ街道の馬頭観音,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1741.