天王様境内の石碑

1右から神明社、雷大明神、弁財天の石碑.jpg
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タイトル (Title)

天王様境内の石碑

詳細 (Description)

 天王様の境内に三つの石碑があります。いずれも大正の初め村山貯水池建設のため、湖底に沈んだ石川の里から芋窪四丁目にうつりました。令和になり、都市計画道路・東大和武蔵村山線がつくられることから、再び、社殿とともに現在地にうつりました。新しい社殿の左側に並んだ三つの碑です。
 これらの碑は、当初、石川の地でそれぞれ川のほとりや丘の上にまつられていました。
  雷大明神碑は住吉神社の西側、弁財天碑は慶性院の近くの川辺にまつられ、村人達から熱心な信仰を受けていました。残念ですが、神明社の旧位置は不明です。それぞれの碑について、右側の碑から記します。
1神明社
 天候の安定、作物の豊作、家族の健康、村の安全・・・など生活に関わる全てを祈願しました。
 高66.0㌢
 幅26.5㌢×19.5㌢
(正面)
  明和丙戌年    祭主
  奉致造替神明社     吉輝
  四月吉日
   明和丙戌年は明和4年(1767)になります。
(右側面)
(銘)
 天下泰平五穀成就
 武野芋久保村
(左側面)
(銘)
 時 天保六未年三月 日
 祭主
市之進
 神明社は多くの神社が祭神を天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受大御神(とようけのおおみかみ)とします。東大和市内では、狭山の神明社が伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祭神としています。
 石川の里の碑の祭神は明らかではありません。正面の碑文から、
・明和4年(1767)4月に、これまであった神明社碑を造り替えた。祭主は吉輝。
・さらに、天保6年(1835)3月、芋久保村が
・天下泰平五穀豊穣を祈願して造立した。祭主は市之進。
 であることがわかります。
 この碑を造立した頃の社会の状況です。
・前年の明和3年(1767)7月19日、28日、多摩地域一帯は台風に襲われました。
 粟、稗とも全滅し、村人は幕府に食料困難を訴えました。
・明和4年2月、隣接する中藤村の村人達が前年の不作のため、食料を得るための借金を幕府に申し込んでいます。
 東大和市域の村々も同じ状況であったと思われます。
・この年、伊奈半左衛門から村ごとに郷蔵(ごうぐら)を建てて稗や麦の備蓄を行い、管理も村が行うように申し渡しがありました。
 次に天保6年(1835)、この碑が建立された前後の状況です。天保の大飢饉の最中でした。
天保4年(1833)
・8月13日、幕府、市中の米穀が底をつき、やむなく蔵米を払い下げ。諸国が飢饉に襲われた。
・8月、兵庫・青森などで米価が謄貴して、打ちこわしが起る。
・9月28日、米価高騰で江戸の窮民が暴動を起こした。
 この年から、全国で百姓一揆・打ちこわしが起き、天保の大飢饉が始まった (~1839)。
天保5年(1834)
・1月1日、昨年の秋より米穀高値 百姓困窮の者多し。これに依り村内年賀を休む。(中藤村『指田日記』武蔵村山市)
・3月25日、蔵敷村で名主杢左衛門ら10人が村内の窮民に大麦24俵を施穀。
・7月21日、十年来の雷鳴がおこり、雷が多くの所に落ちた。
・7月、蔵敷村で貯穀拝借 麦2石2斗9升余、稗26石9斗7升を窮民に分配。
    麦と稗が主食でした。
天保6年(1835)
・1月、狭山丘陵で猪鹿の追散をする。
 作物を荒らす猪や鹿を追い払い狩りをする。
・3月、芋窪村石川の神明社碑が造立される。明和(1767)4年造り替えたものを、さらにこの年にまつった。
・8月、幕府から多摩の農村に菜種栽培の命令が出される。 
 収穫物は幕府で買い上げ窮民援助とする趣旨とされる。各村で請書を出す。
天保7年(1836)
・4月1日、中藤村で、困窮人救いの為、稗倉に貯蔵した稗穀を配る。
・4月、蔵敷村で幕府から15両を拝借する。内5両は返済不要、10両は4か年賦で返済する。極窮民56人。
 他の村々も同様な措置があったと推定される。
・7月18日大暴風雨
天保8年(1837)
・1月、東大和市域の村々をおさめていた代官・江川英龍が海防策を幕府に提出。
 江戸湾へ外国船が接近してきた。
・6月19日、桃の実ほどの雹(ひょう)が降り、農産物が壊滅する。
 神明社の碑はこのような背景のもとに建立されました。
 いかに碑文の「天下泰平と五穀成就」が切実の願いであったかがしのばれます。
 天保6年(1835)造立の祭主・市之進は現・豊鹿島神社神主石井家の先祖にあたります。
 とても残念ですが、この碑がどこにまつられたのか旧地は不明です。
2雷大明神(いかづちだいみょうじん)
 天候の調和、疫病、外敵侵入の防止、病気治癒・・などが祈られますが、石川ではこの他に幼児の夜泣きの神として広く信仰を集めました。
 高約66㌢
 幅21.0㌢×13.0㌢
(正面)
 正面 現在では読み取れませんが『生活文化財調査概要報告書』(p16)に
   人王百四代後土御門御宇
   雷大明神社 祭主 若満
      願主 石川麿呂
   文正元天戌十月三日 文正元年=1466年
(右側面)
  欠 歳二月 日
  欠 州多摩郡芋久保村
      尾又七郎左衛門
      石井武左衛門
      高杉糸兵衛
      栗原七左衛門
      欠  兵衛
  祭主 石井市之進
(左側面)
   願 主 石井甚ヱ門
       進藤善衛門
   氏子中 須嘉沼平衛門
       清野半左衛門
 と彫られていたことが記されています。
『東大和市生活文化財調査概要報告書』は
 「雷を神として敬い、かつ恐れる信仰から、雷神は全国で祀らるようになった。この雷大明神社は、殊に、子供の夜泣きの神として霊験があったと伝わる。この碑の正面および右側面は完全に剥落していて、わずかに左側面に銘文が残るのみである。」(p16)
 としています。
 地元の方によると、まつられていたところは住吉神社の西側にあった「いかづち山」の山頂とされます。『東大和のよもやまばなし』に「いかづちさま」として「夜泣きがなおると、村のおもちゃ屋で買い求めた竹の横笛をお礼に納めました」と、子供の夜泣きが止まる御利益が伝えられます。
 碑面で、造立は文正元年(1466)とします。この年は豊鹿島神社本殿が創建された年です。そして、祭主・若満、願主・石川麿呂はいずれも豊鹿島神社に関わっています。
 しかし、この碑の左右に彫られた人名は後の人々です。豊鹿島神社境内にまつられている滝沢明神社、白山大権現の碑に同名が刻まれています。いずれの碑も、文化4年(1807年)2月に造立されています。雷大明神の碑面の「欠 歳二月 日」「祭主 石井市之進」から、この碑の造立年は、同年の文化4年(1807年)2月と推定できます。
 現・豊鹿島神社本殿の創建(1466)をもとに、文化4年(1807年)の頃、滝沢明神社、白山大権現、雷大明神をまつる何らかの大きな祈願の要因があったのだと思われます。滝沢明神社、白山大権現については別に記します。
3辨財天(弁財天)
 
 七福神の中の弁天様として親しまれました。
 高 68・0㌢
 幅 39・0㌢×34・0㌢
(正面)
 難しい字ですが、辨財天(弁財天)とはっきりと彫られています。
(右側面)
 文化十四年丑三月吉日
 十九人講中
  文化14年=1817年
(左側面)
 武州多摩郡芋窪邑石川 セリヨ
 同州同郡小川邑 ハタケ
 同州入間郡落合邑 メリ井
 現在の地名にすると、東大和市・芋窪村、小平市・小川村、埼玉県飯能市・落合村になります。
・結構、広範囲に及んでいます。
・その氏名も独特です。
・十九人の講中は誰なのか
 など当時の状況を詳しく知りたいです。
『信仰のすがたと造形』は
 弁財天は元来、農業神であったが、音楽や智恵の神に転じ、鎌倉時代以降は福徳神の性格が強くなり、七福神の一員に加えられた。信仰対象の弁財天は、水辺に祀られる水神として、もしくは巳待供養や巳待講水神講、弁天講などによる講中によって石造品が造立される。(p45)
『生活文化財調査概要報告書』は
 この種の文字塔は各地でよく見かけるが、東大和市内では唯一のものである。(中略)碑型は、上部稜形石碑で、この碑型は『兜巾型』とも呼ばれる。
 故老の談によれば、石川が付近一帯の水田を潤しており、小流の側には慶性院に移した弁才天尊の石碑があり、その近くの湧水池の側に、この『辮財天』(辨財天)の石碑があったと伝えている。弁才天が水の恵みを与える神として、土地の農民に信仰されていたことは、その『辮財天』(辨財天)の石碑の左側面に刻まれた文字によって、およそ判断される。(p85)
 と解説しています。
 この碑が立てられた時は
 前年の文化13年(1816)
・3月、村々に徘徊を始めた浪人者の取締まりについて、組合十ヵ村が共に取り締まりに当たることを決め、芋久保村も加入する。
・4月から8月にかけて疫病(天然痘、コレラ・コロリ、麻疹・はしか)が流行し、死者が多数出る。
 文化14年(1817)
・1月、幕府から、倹約令の期間が終わるが以後も節約すべきことを諸大名に布達される。
 など、村々に厳しい空気が生まれた年でした。
4 旧住吉・八雲神社境内の頃の石碑
 都市計画道路が出来る前にもこれらの碑に寄せる信仰心は厚く、移転する間際までお賽銭が捧げられていました。
 生活が変わっても、地球温暖化による気候異変、豪雨、自然災害など克服課題は迫ります。
 特に、新コロナウイルス蔓延は、この碑の造立時期の課題を超えそうです。お守り下さるよう手を合わせます。

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“天王様境内の石碑,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1747.