馬頭観音 高木神社前 慶応4年
タイトル (Title)
馬頭観音 高木神社前 慶応4年
詳細 (Description)
明治維新の年、慶応4年(1868)です。
村中の願いを込めて、馬頭様が
清戸街道、高木神社前(当時は尉殿権現・じょうどのごんげん)にまつられました。
しっかりとした「馬頭観世音」の文字が彫られています。
高さ89㌢ 幅42㌢ 奥行き36㌢
台石高さ36㌢ 幅59.5センチ
台石には
世話人
村役人中とあります。
村中でまつったことがわかります。
右側面
天下泰平
国土安全
と太く彫られます。
この言葉は馬頭様に彫られる一つの流行でもありました。
しかし、建立されたのは幕末から明治維新の時代、
村人には特別の思いがあったものと推察します。
左側面
慶応龍集戌辰九月吉日旦建
邵(しょう)雲済員 拝書
と彫られています。難しい字ですが
龍集=りゅうしゅう・年号の下に付けて=年
戌辰=つちのえたつ・ぼしん=1868
慶応4年(1868)9月吉日と読みます。
馬頭様が建立された慶応4年(1868)9月は、まさに混乱のさなかでした。
・1月3日、鳥羽伏見の戦いで旧幕府方敗北、以後、
大政奉還 王政復古
・1月10日、徳川慶喜征討令
・2月4日、慶喜が家臣に随身の自由を認める
・3月1日、近藤勇東征軍を迎え討つため江戸出発
・3月13~14日 勝海舟・西郷隆盛会談 江戸城攻撃中止
・5月、旧徳川家臣団による振武軍から軍用金拠出要請を村々が受け、応ずる。
・5月15日、上野彰義隊戦争。
・6月19日、武蔵国に知県事が置かれ、
・6月29日、江川太郎左衛門が韮山県知県事に任命される。
東大和周辺は韮山県知県事の統治下に置かれる。
・9月8日、明治と改元
省略しましたが、馬頭様が建立された「慶応龍集戌辰九月吉日」は、
・明治となるこの9月8日の前の数日になります。
大変化の時期に、天下泰平・国土安全を刻んで馬頭様をまつった背景には、また格別のものがあったことと思います。
建立の趣意書が発見されることを願っています。
供養碑
慶応4年(1868)の馬頭様は高木神社前の石造物一番左側にまつられています。
馬頭様の右の供養碑には
道路改修の為
昭和五十二年八月六日
高木二丁目一○四番地より移設
と彫られています。
清戸街道
慶応4年の馬頭様は清戸街道に面してまつられていました。
清戸街道は
・奈良橋から清瀬に向かう道路で、
・中世には清戸番所への道であり、
・江戸時代初期には青梅成木からの石灰が新河岸川へ運ばれ、
・江戸時代を通じて江戸市中への農間稼の出発点でした。
・高木神社の表参道がこの道に接し、
・高木の村人にとっては主要な幹線道路でした。
・馬頭様は道行く全ての安全と繁栄を見守り、願う、
・大切な祈りの場であったと思われます。
・高木村の人々は
・天保5年(1834)に、江戸街道沿い、
・文政11年(1828)に、江戸街道沿い、
・慶応4年(1868)に、高木集落の中央部、産土様・高木神社のかたわらに、
・昭和4年(1929)に、場所不明
・馬頭様をまつりました。その跡をたどり
・建立時の時代背景を調べると
・当時の村人の心持ちが新たに感慨を持って伝わって来ます。
村中の願いを込めて、馬頭様が
清戸街道、高木神社前(当時は尉殿権現・じょうどのごんげん)にまつられました。
しっかりとした「馬頭観世音」の文字が彫られています。
高さ89㌢ 幅42㌢ 奥行き36㌢
台石高さ36㌢ 幅59.5センチ
台石には
世話人
村役人中とあります。
村中でまつったことがわかります。
右側面
天下泰平
国土安全
と太く彫られます。
この言葉は馬頭様に彫られる一つの流行でもありました。
しかし、建立されたのは幕末から明治維新の時代、
村人には特別の思いがあったものと推察します。
左側面
慶応龍集戌辰九月吉日旦建
邵(しょう)雲済員 拝書
と彫られています。難しい字ですが
龍集=りゅうしゅう・年号の下に付けて=年
戌辰=つちのえたつ・ぼしん=1868
慶応4年(1868)9月吉日と読みます。
馬頭様が建立された慶応4年(1868)9月は、まさに混乱のさなかでした。
・1月3日、鳥羽伏見の戦いで旧幕府方敗北、以後、
大政奉還 王政復古
・1月10日、徳川慶喜征討令
・2月4日、慶喜が家臣に随身の自由を認める
・3月1日、近藤勇東征軍を迎え討つため江戸出発
・3月13~14日 勝海舟・西郷隆盛会談 江戸城攻撃中止
・5月、旧徳川家臣団による振武軍から軍用金拠出要請を村々が受け、応ずる。
・5月15日、上野彰義隊戦争。
・6月19日、武蔵国に知県事が置かれ、
・6月29日、江川太郎左衛門が韮山県知県事に任命される。
東大和周辺は韮山県知県事の統治下に置かれる。
・9月8日、明治と改元
省略しましたが、馬頭様が建立された「慶応龍集戌辰九月吉日」は、
・明治となるこの9月8日の前の数日になります。
大変化の時期に、天下泰平・国土安全を刻んで馬頭様をまつった背景には、また格別のものがあったことと思います。
建立の趣意書が発見されることを願っています。
供養碑
慶応4年(1868)の馬頭様は高木神社前の石造物一番左側にまつられています。
馬頭様の右の供養碑には
道路改修の為
昭和五十二年八月六日
高木二丁目一○四番地より移設
と彫られています。
清戸街道
慶応4年の馬頭様は清戸街道に面してまつられていました。
清戸街道は
・奈良橋から清瀬に向かう道路で、
・中世には清戸番所への道であり、
・江戸時代初期には青梅成木からの石灰が新河岸川へ運ばれ、
・江戸時代を通じて江戸市中への農間稼の出発点でした。
・高木神社の表参道がこの道に接し、
・高木の村人にとっては主要な幹線道路でした。
・馬頭様は道行く全ての安全と繁栄を見守り、願う、
・大切な祈りの場であったと思われます。
・高木村の人々は
・天保5年(1834)に、江戸街道沿い、
・文政11年(1828)に、江戸街道沿い、
・慶応4年(1868)に、高木集落の中央部、産土様・高木神社のかたわらに、
・昭和4年(1929)に、場所不明
・馬頭様をまつりました。その跡をたどり
・建立時の時代背景を調べると
・当時の村人の心持ちが新たに感慨を持って伝わって来ます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“馬頭観音 高木神社前 慶応4年,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1759.