略年譜 大正時代
タイトル (Title)
略年譜 大正時代
詳細 (Description)
・1912年(大正元年・明治45年)7月30日、大正と改元。
・1913年(大正2)9月7日、村山貯水池建設について内閣の認可。
・大正2年度~大正8年度(1913~1919)東京市上水道拡張計画が決定された。
・1913年(大正2)12月14日、村山軽便鉄道敷設免許下付を内閣総理大臣に申請。
・免許状が下付されたが、1915(大正4)年12月28日、川越鉄道に権利一切を譲渡、実現せず。
・1914年(大正3)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量詰め所が設けられた。
・村山貯水池の用地買収はじまる。(324町歩160戸)
・1914年(大正3)1月20日、移転反対の住民大会。
・1915年(大正4)
・2月15日、村山貯水池用地買収価格発表、買収開始、反対運動はさらに続いた。
・2月28日、土地買収承諾書調印拒絶。
・高木村外五か村組合は、東京市の買収価格が当時の上地売買価格の半額にも達せず、
・東京市に問い合わせた。
・要領を得ないので、土地買収の承諾書に調印を拒絶することとした。
◎その後、何らかの要因で、急速に事情が変わり、用地買収に応じ、
・12月、村山貯水池敷地内の住民が移動を開始した。
・1916年(大正5)6月4日、村山貯水池建設地鎮祭が行われる。
・1917年(大正6)、実業補習学校設立。
・1918年(大正7)8月、米騒動が全国に及ぶ
・8月13日、日比谷公園に人々が集まり、1500名に達し、暴徒となって、日本橋や深川方面に向かい離合集散を繰り返した。
・この暴動は15日迄続き、遂に近衛師団の出動となった。(『東京百年史』四p970~980)
◎高木他五か村組合村では米の
・廉売、 8月21日、10月1日、11月1日、11月11日、12月22日
・実費販売、 10月6、25、11月1、11、21、12月1、16日を行った。
・財源 御下賜金378円78銭 東京府45円50銭
・組合村の借入金5000円
・対象になった米 外米、朝鮮米
・1918年(大正7)、小学校児童増に、二部授業を開始(『東大和市学校教育のあゆみ』p38)
・1919年(大正8)2月 25日、村議会で「各村」を合併し「高木村他五ヵ村組合」との二重行政の解消を議決。
・「狭山村 高木村 清水村 奈良橋村 蔵敷村 芋窪村ノ六ケ村ヲ合併シ
・新ニ一村ヲ設置センコトヲ其ノ筋ニ請願スルモノトス
・但、現在ニ於ケル各村ノ名称ハ其ノ区域ト共ニ大字トシテ存置シ
・各村有ノ財産ハ其ノ大字有財産トシテ存置スベク
・又 現在組合ノ財産ハ新ニ設置スペキ村有財産トナスモノトス」
・1919年(大正8)8月7日、東京府から、組合村を廃し、「大和村」とすることに異存がないかの諮問あり
・1919年(大正8)8月15日、村議会は異議のない旨答申。
・1919年(大正8)11月1日、大和村となる。(人口5.190人 戸数770戸)
・高木他五か村組合村を廃止し、
・芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の6ケ村を合併して
・「大和村」と命名
・大和村青年会成立 村制施行により各村の青年会を統合した。
・大和村教育会を設立
・子供達は弁当に薩摩芋持参
・メリケン粉袋でパンツや風呂敷をつくる
・1920年(大正9)6月20日、東村山駅~清水村間の東京市専用鉄道開通式。
「宮鍋隧道」開通(軽便鉄道のトンネル)
・1920年(大正9)9月、第二村山小学校(奈良橋)を廃止し
・分教場として第一(芋窪)・第三村山小学校(狭山)高等科児童を収容。
・理由は児童の増加。本来なら学校の増改築をすべきであるのに、
・財政上それができないので、通学区の変更、児童の割り振りで処理をした。
・1920年(大正9)10月1日、第一回国勢調査。
・世帯892 人口 5,017 男 2,452 女 2,565 一世帯当たり人口5.62
・1921年(大正10)年8月、芋窪村尾又高次郎、小槫惣八が「村山乗合自動車」を起こして、試運転開始。
・昭和初年まで続き、西武に売却されたとする。『東大和のよもやまばなし』p91~92
・1922年(大正11)6月14日、立川村に飛行場が開設され、岐阜県各務原から陸軍航空第五大隊が移駐してきた。
・1922年(大正11)、貯水池移転によって、慶性院が現在地へ移転した。
・1922年(大正11)、蔵敷高札場が都の文化財に指定された。
・1923年(大正12)3月、大和村で村騒動がおこり、職務管掌の状態となった。
・村長に東京府から派遣される他の村の人を迎えた。
・村長擁護派と排斥派が対立し、村を二分する争いになった。(『大和町史』p435)
・1923年(大正12)9月1日、関東大震災。
大和村では罹災した家や死傷・行方不明者はなし。
・1923年(大正12)9月13日、御霊神社を狭山神社に合祀(『東大和市史資料編』2p99)
・1923年(大正12)12月29日、貯水池周囲道路完成
・1924年(大正13)3月31日、村山上貯水池完成。
・1925年(大正14)10月、
・第2回国勢調査 919世帯 人口5048 男2447 女2601 一世帯当たり人員5.49
・1926年(大正15)6月、大正十五年竣功銘の刻まれた橋柱(滝見橋)がある。
・1926年(大正15)9月13日、村山尋常高等小学校を大和尋常高等小学校と改称。
・普通教室9、理科室、裁縫室(兼作法室)を増築した。
・増築費には、村有財産の売り払い代金を充てるが、
・10年間に住民が負担する税で、償還補填することとしている。
・これらの負担が、次の昭和恐慌と重なって、村は悲惨な状況になる。
・1926年(大正15)12月25日、
・大正天皇の崩御により、皇太子裕仁親王が皇位を継承して、
・即日「昭和」と改元。
・1913年(大正2)9月7日、村山貯水池建設について内閣の認可。
・大正2年度~大正8年度(1913~1919)東京市上水道拡張計画が決定された。
・1913年(大正2)12月14日、村山軽便鉄道敷設免許下付を内閣総理大臣に申請。
・免許状が下付されたが、1915(大正4)年12月28日、川越鉄道に権利一切を譲渡、実現せず。
・1914年(大正3)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量詰め所が設けられた。
・村山貯水池の用地買収はじまる。(324町歩160戸)
・1914年(大正3)1月20日、移転反対の住民大会。
・1915年(大正4)
・2月15日、村山貯水池用地買収価格発表、買収開始、反対運動はさらに続いた。
・2月28日、土地買収承諾書調印拒絶。
・高木村外五か村組合は、東京市の買収価格が当時の上地売買価格の半額にも達せず、
・東京市に問い合わせた。
・要領を得ないので、土地買収の承諾書に調印を拒絶することとした。
◎その後、何らかの要因で、急速に事情が変わり、用地買収に応じ、
・12月、村山貯水池敷地内の住民が移動を開始した。
・1916年(大正5)6月4日、村山貯水池建設地鎮祭が行われる。
・1917年(大正6)、実業補習学校設立。
・1918年(大正7)8月、米騒動が全国に及ぶ
・8月13日、日比谷公園に人々が集まり、1500名に達し、暴徒となって、日本橋や深川方面に向かい離合集散を繰り返した。
・この暴動は15日迄続き、遂に近衛師団の出動となった。(『東京百年史』四p970~980)
◎高木他五か村組合村では米の
・廉売、 8月21日、10月1日、11月1日、11月11日、12月22日
・実費販売、 10月6、25、11月1、11、21、12月1、16日を行った。
・財源 御下賜金378円78銭 東京府45円50銭
・組合村の借入金5000円
・対象になった米 外米、朝鮮米
・1918年(大正7)、小学校児童増に、二部授業を開始(『東大和市学校教育のあゆみ』p38)
・1919年(大正8)2月 25日、村議会で「各村」を合併し「高木村他五ヵ村組合」との二重行政の解消を議決。
・「狭山村 高木村 清水村 奈良橋村 蔵敷村 芋窪村ノ六ケ村ヲ合併シ
・新ニ一村ヲ設置センコトヲ其ノ筋ニ請願スルモノトス
・但、現在ニ於ケル各村ノ名称ハ其ノ区域ト共ニ大字トシテ存置シ
・各村有ノ財産ハ其ノ大字有財産トシテ存置スベク
・又 現在組合ノ財産ハ新ニ設置スペキ村有財産トナスモノトス」
・1919年(大正8)8月7日、東京府から、組合村を廃し、「大和村」とすることに異存がないかの諮問あり
・1919年(大正8)8月15日、村議会は異議のない旨答申。
・1919年(大正8)11月1日、大和村となる。(人口5.190人 戸数770戸)
・高木他五か村組合村を廃止し、
・芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の6ケ村を合併して
・「大和村」と命名
・大和村青年会成立 村制施行により各村の青年会を統合した。
・大和村教育会を設立
・子供達は弁当に薩摩芋持参
・メリケン粉袋でパンツや風呂敷をつくる
・1920年(大正9)6月20日、東村山駅~清水村間の東京市専用鉄道開通式。
「宮鍋隧道」開通(軽便鉄道のトンネル)
・1920年(大正9)9月、第二村山小学校(奈良橋)を廃止し
・分教場として第一(芋窪)・第三村山小学校(狭山)高等科児童を収容。
・理由は児童の増加。本来なら学校の増改築をすべきであるのに、
・財政上それができないので、通学区の変更、児童の割り振りで処理をした。
・1920年(大正9)10月1日、第一回国勢調査。
・世帯892 人口 5,017 男 2,452 女 2,565 一世帯当たり人口5.62
・1921年(大正10)年8月、芋窪村尾又高次郎、小槫惣八が「村山乗合自動車」を起こして、試運転開始。
・昭和初年まで続き、西武に売却されたとする。『東大和のよもやまばなし』p91~92
・1922年(大正11)6月14日、立川村に飛行場が開設され、岐阜県各務原から陸軍航空第五大隊が移駐してきた。
・1922年(大正11)、貯水池移転によって、慶性院が現在地へ移転した。
・1922年(大正11)、蔵敷高札場が都の文化財に指定された。
・1923年(大正12)3月、大和村で村騒動がおこり、職務管掌の状態となった。
・村長に東京府から派遣される他の村の人を迎えた。
・村長擁護派と排斥派が対立し、村を二分する争いになった。(『大和町史』p435)
・1923年(大正12)9月1日、関東大震災。
大和村では罹災した家や死傷・行方不明者はなし。
・1923年(大正12)9月13日、御霊神社を狭山神社に合祀(『東大和市史資料編』2p99)
・1923年(大正12)12月29日、貯水池周囲道路完成
・1924年(大正13)3月31日、村山上貯水池完成。
・1925年(大正14)10月、
・第2回国勢調査 919世帯 人口5048 男2447 女2601 一世帯当たり人員5.49
・1926年(大正15)6月、大正十五年竣功銘の刻まれた橋柱(滝見橋)がある。
・1926年(大正15)9月13日、村山尋常高等小学校を大和尋常高等小学校と改称。
・普通教室9、理科室、裁縫室(兼作法室)を増築した。
・増築費には、村有財産の売り払い代金を充てるが、
・10年間に住民が負担する税で、償還補填することとしている。
・これらの負担が、次の昭和恐慌と重なって、村は悲惨な状況になる。
・1926年(大正15)12月25日、
・大正天皇の崩御により、皇太子裕仁親王が皇位を継承して、
・即日「昭和」と改元。
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“略年譜 大正時代,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1786.