大まかな歴史の流れ 昭和時代1
タイトル (Title)
大まかな歴史の流れ 昭和時代1
詳細 (Description)
大正から昭和へ
第一次世界大戦、政党内閣、労働運動、新たな文学の芽生えなど、
時には大正デモクラシーと呼ばれる大正時代、東大和市域の村々では、
・村山貯水池の建設、反対、受け入れ、移転と推移し
・162戸の古代からの集落が湖底に沈み、
・ほとんどの家族が狭山丘陵の南麓に新たな集落を形成する
など、大きな変化をしました。
そのような中で、昭和を迎えました。
貯水池建設ブーム去る
昭和2年(1927)3月、村山貯水池が完成しました。
・軽便鉄道からの荷下ろし、トロッコ運搬、女衆の「タコつき」など、村人は何らかの形で仕事を得ました。
・小学生には「むしろ敷き」のアルバイトがありました。
・労賃は周辺の平均値を上回るなど、
そこから得た現金による副収入は、村人の生活に大きく寄与しました。
しかし、工事が終わった後、その収入源が絶たれます。そこに、押し寄せたのが昭和2年(1927)の金融恐慌、続いて昭和5年(1930)の農村恐慌です。農産物価格の大幅な下落を来しました。
大和村の零細経営の兼業農家は、穀物生産から、現金収入を得やすい養蚕へと転換をしていました。二つの恐慌は、生糸の価格を下落させ、大和村の農業はその影響を直接に受けました。
経済更正指定村の指定 実行組合
昭和6年(1931)、村は低利資金を導入して、桑畑の荒廃をくい止めようとしましたが、不況はそれを上回り、荒廃が進みました。低利資金の融資、償還延長などの救済策には、農家自体が応じられなくなっていました。
昭和7年(1932)頃には、農民は生産と生活の両面にわたり借金を繰り返す状況になっていました。政府は「農山漁村更正計画」をたて、村の再生を図る政策を採りました。
それは「実行組合」をつくって、経済の更正、負債の整理をしようとするものでした。大和村は昭和8年(1933)、「経済更正指定村」の指定を受けました。当時の村が一刻の猶予もならなかった事が推測されます。昭和9年(1934)には次の組合が設立されています。
蔵敷養蚕実行組合 66名
大和共同出荷組合 30名
高木農事改良実行組合 67名
狭山養豚組合 70 名
大和養鶏組合 30名
これらの組合がどのように活動したのかは調査中です。なお、組合設立の年は『大和町史』(p464)によります。かって蔵敷養蚕実行組合が活動した地域にモニュメント「繭」があります。
負債整理組合
もう一つの方法は「負債整理組合」の設立でした。昭和9年(1934)3月、大和村負債整理委員会が発足し、大字(=かっての村々)に、それぞれ組合を発足させようと計画しました。
負債を抱えた農民が組合をつくり、政府の融資と自助努力で借金を処理する制度でした。次の負債整理組合がつくられました。
芋窪、狭山、奈良橋、砂、清水の5負債整理組合です。
組合の活動内容については調査中です。
大和村経済更正計画
負債整理組合により一応の危機を乗り切りましたが、直ちに次への対応が求められました。
・村の産業の総合計画化と事業の推進です。
・経済更生委員会を設けて検討が続けられました。
・奈良橋に「産業組合」(現在の農協の前身)を設置して
・「共同作業場」「共同醤油醸造場」「農産物集積倉庫」「共同種豚場」「共同育雛舎」を設けて事業の推進を図ります。
・昭和13年(1938)に下表のとおり実現しました。
この表では総計が出ていませんが次のようになります。
総事業費 22,238円
国庫助成金 10,600円 47,6%
借入金 5,000円 22,4%
自己財源(自弁費)6,638円 29、8%
です。(表では共同作業場設置で所要経費の欄の金額が所要経費を総計すると100円合わないので自弁費を536円として計算しました。)
要するにこれだけの事業を
・国からの助成47,6%と借金22,4%を導入して、70%の財源を確保する
・自己資金は30%で事業を実現する
ところに意味があります。
◎村の産業は様々に展開されますが、やはり養蚕が中心でした。昭和13年の村概観では「本村現金収入の大部門をなす」としています。その様子は当時の村図にもはっきり現れています。
丘陵南面に広がる畑地はほとんどが桑の記号で埋まっています。
村人の負担は重かった
昭和13年度(1938)の予算を見ると
収入 総額 48.201円
村税 29.474円
使用料手数料 2.520円
国庫下渡金 7.250円
府補助金 1.583円
経済更生特別助成金4.880円などで
村税と使用料手数料で66.3% 国や東京府の補助金などが28.4%です。
厳しい中で、61%の村税を負担しています。ちなみに令和3年度予算では市税の占める割合は38.1%です。
◎補助金は大きな割合を占めますが、関連する事業にそのまま充てられています。
支出 総額 48.201円
役場費 8.942円
小学校費 20.762円
青年学校費 3.153円
補助費 3.091円
経済更生特別助成費補助4.880円などで
役場費と小学校費、青年学校費で68.2% 経済更生のため活動団体に対する補助金16.5%です。
土木費は516円、衛生費480円、社会事業費175円です。
村人の負担は役場費と教育費で消えました。村はさらに自力で立ち上がるため、
・都会向け野菜の栽培
・養豚、養鶏などの導入
による農業経営の多角化の模索をしました。
しかし、先は不透明でした。そのとき浮上してきたのが、村の南部への工場の立地でした。
第一次世界大戦、政党内閣、労働運動、新たな文学の芽生えなど、
時には大正デモクラシーと呼ばれる大正時代、東大和市域の村々では、
・村山貯水池の建設、反対、受け入れ、移転と推移し
・162戸の古代からの集落が湖底に沈み、
・ほとんどの家族が狭山丘陵の南麓に新たな集落を形成する
など、大きな変化をしました。
そのような中で、昭和を迎えました。
貯水池建設ブーム去る
昭和2年(1927)3月、村山貯水池が完成しました。
・軽便鉄道からの荷下ろし、トロッコ運搬、女衆の「タコつき」など、村人は何らかの形で仕事を得ました。
・小学生には「むしろ敷き」のアルバイトがありました。
・労賃は周辺の平均値を上回るなど、
そこから得た現金による副収入は、村人の生活に大きく寄与しました。
しかし、工事が終わった後、その収入源が絶たれます。そこに、押し寄せたのが昭和2年(1927)の金融恐慌、続いて昭和5年(1930)の農村恐慌です。農産物価格の大幅な下落を来しました。
大和村の零細経営の兼業農家は、穀物生産から、現金収入を得やすい養蚕へと転換をしていました。二つの恐慌は、生糸の価格を下落させ、大和村の農業はその影響を直接に受けました。
経済更正指定村の指定 実行組合
昭和6年(1931)、村は低利資金を導入して、桑畑の荒廃をくい止めようとしましたが、不況はそれを上回り、荒廃が進みました。低利資金の融資、償還延長などの救済策には、農家自体が応じられなくなっていました。
昭和7年(1932)頃には、農民は生産と生活の両面にわたり借金を繰り返す状況になっていました。政府は「農山漁村更正計画」をたて、村の再生を図る政策を採りました。
それは「実行組合」をつくって、経済の更正、負債の整理をしようとするものでした。大和村は昭和8年(1933)、「経済更正指定村」の指定を受けました。当時の村が一刻の猶予もならなかった事が推測されます。昭和9年(1934)には次の組合が設立されています。
蔵敷養蚕実行組合 66名
大和共同出荷組合 30名
高木農事改良実行組合 67名
狭山養豚組合 70 名
大和養鶏組合 30名
これらの組合がどのように活動したのかは調査中です。なお、組合設立の年は『大和町史』(p464)によります。かって蔵敷養蚕実行組合が活動した地域にモニュメント「繭」があります。
負債整理組合
もう一つの方法は「負債整理組合」の設立でした。昭和9年(1934)3月、大和村負債整理委員会が発足し、大字(=かっての村々)に、それぞれ組合を発足させようと計画しました。
負債を抱えた農民が組合をつくり、政府の融資と自助努力で借金を処理する制度でした。次の負債整理組合がつくられました。
芋窪、狭山、奈良橋、砂、清水の5負債整理組合です。
組合の活動内容については調査中です。
大和村経済更正計画
負債整理組合により一応の危機を乗り切りましたが、直ちに次への対応が求められました。
・村の産業の総合計画化と事業の推進です。
・経済更生委員会を設けて検討が続けられました。
・奈良橋に「産業組合」(現在の農協の前身)を設置して
・「共同作業場」「共同醤油醸造場」「農産物集積倉庫」「共同種豚場」「共同育雛舎」を設けて事業の推進を図ります。
・昭和13年(1938)に下表のとおり実現しました。
この表では総計が出ていませんが次のようになります。
総事業費 22,238円
国庫助成金 10,600円 47,6%
借入金 5,000円 22,4%
自己財源(自弁費)6,638円 29、8%
です。(表では共同作業場設置で所要経費の欄の金額が所要経費を総計すると100円合わないので自弁費を536円として計算しました。)
要するにこれだけの事業を
・国からの助成47,6%と借金22,4%を導入して、70%の財源を確保する
・自己資金は30%で事業を実現する
ところに意味があります。
◎村の産業は様々に展開されますが、やはり養蚕が中心でした。昭和13年の村概観では「本村現金収入の大部門をなす」としています。その様子は当時の村図にもはっきり現れています。
丘陵南面に広がる畑地はほとんどが桑の記号で埋まっています。
村人の負担は重かった
昭和13年度(1938)の予算を見ると
収入 総額 48.201円
村税 29.474円
使用料手数料 2.520円
国庫下渡金 7.250円
府補助金 1.583円
経済更生特別助成金4.880円などで
村税と使用料手数料で66.3% 国や東京府の補助金などが28.4%です。
厳しい中で、61%の村税を負担しています。ちなみに令和3年度予算では市税の占める割合は38.1%です。
◎補助金は大きな割合を占めますが、関連する事業にそのまま充てられています。
支出 総額 48.201円
役場費 8.942円
小学校費 20.762円
青年学校費 3.153円
補助費 3.091円
経済更生特別助成費補助4.880円などで
役場費と小学校費、青年学校費で68.2% 経済更生のため活動団体に対する補助金16.5%です。
土木費は516円、衛生費480円、社会事業費175円です。
村人の負担は役場費と教育費で消えました。村はさらに自力で立ち上がるため、
・都会向け野菜の栽培
・養豚、養鶏などの導入
による農業経営の多角化の模索をしました。
しかし、先は不透明でした。そのとき浮上してきたのが、村の南部への工場の立地でした。
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Collection
Citation
“大まかな歴史の流れ 昭和時代1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月24日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/items/show/1790.