霊性庵の石造物4

1霊性庵墓地右奥方向.jpg
2墓所合祀五輪塔他.jpg
3巡礼供養塔_安永7年(1778)3月.jpg
4「宅部江内堀邑」=「宅部郷の内堀村」.jpg

タイトル (Title)

霊性庵の石造物4

詳細 (Description)

墓地右奥
 正面参道から墓地に入り右側に向かいます。
一番奥に、両墓制の関連石造物と巡礼供養塔があります。
 昭和36年(1961)土葬禁止条例が定められる以前、この地では遺骸の埋め墓(第一次の墓地)と追善仏事を経た祖霊を祀る祭り墓(第二次の墓地)が分かれていました。これを両墓制と云いました。五輪塔はそれを廃止して、平成9年(1997)合祀したことから供養のため造立されました。碑にはその経過と村山貯水池の湖底に沈んだ地域の墓を移転した経過が刻まれています。
巡礼供養塔 安永7年(1778)3月
天下泰平 安永七年戊戌歳(つちのえいぬ)
秩父  武州多摩郡山口領
奉納  西国  二世安穏
坂東  宅部江内堀邑
国土安全 三月吉祥日
内堀重左衛門 長右衛門 七右衛門
肥沼八良左衛門
山中喜三郎
秩父、坂東、西国 百観音の巡礼供養塔です。
 安永6年(1777)から7年(1778)にかけては、幕府が百姓の徒党、強訴を禁じたように、農村に不安定な空気が広まり米価が高騰しました。
 安永9年(1780)には、作物の不作が続いたため、東大和市域の村々では年貢の延納願いを出しています。
 そのような中で建立された供養塔です。背景に何があったのか考えさせられます。
 また、供養塔は「宅部江内堀邑」=「宅部郷の内堀村」を名乗っています。当時、この地域は「宅部村」でした。その中での「内堀村」の宣言は、村人達の内堀への思いがいかに強かったかが伝わります。また、奉納した人々の名字も貴重です。

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Citation

“霊性庵の石造物4,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年3月29日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1753.