徳治二年銘の板碑(市郷土資料)
タイトル (Title)
徳治二年銘の板碑(市郷土資料)
詳細 (Description)
円乘院に阿弥陀三尊種子、徳治二年(1307)銘の板碑が保存されています。
市保存・永仁2年(1294)、小嶋家・永仁4年(1296)、三光院・徳治元年(1306)に次ぐ年代の板碑です。
完全な姿を伝え、魅力的です。東大和市の郷土資料として指定されています。
所在地 東大和市狭山3-1354 円乘院
指 定 昭和55年(1980)4月1日
説 明 中世の仏教信仰を示す貴重な資料
元所在地 不明
徳治二年銘板碑の説明板
円乘院本堂への中央階段の左側に「東大和市郷土資料」の説明板があります。
そこには、現在、次のように説明されています。
「東大和市郷土資料
徳治二年銘の板碑
所在 東大和市狭山三丁目一三五四番地
指定 昭和五十五年四月一日
円乘院が所有する徳治二(一三○七)年銘の板碑は、市内でも古い紀年銘を持つ板碑である。
長さ七三センチメートル、幅二一・五センチメートルの緑泥片岩製で、現在は本堂に保存されている。
板碑(青石塔婆ともいう)は、墓標ではなく、供養塔であり、
現在、墓石のうしろへたてられる木製の卒塔婆と同じ意味をもつものである。
東大和市教育委員会」
ところが、平成元年(1989)、永仁2年の板碑が最古として指定されるまでは、
この板碑が市内最古とされ、次のように、説明されていました。
「東大和市郷土資料
徳治二年銘の板碑
所在 東大和市狭山三丁目一三五四番地
指定 昭和五十五年四月一日
円乘院が所有する徳治二(一三○七)年銘の板碑は市内最古の紀年銘の板碑である。
長さ七三センチメートル、幅二一・五センチメートルの石造(緑泥片岩製)で、現在本堂に保存されている。
板碑(青石塔婆とも呼ぶ)は、墓標ではなく、供養塔でそのまま墓碑としてしようされたことはきわめて少なかったようである。
現在、墓石のうしろへたてられる木製の卒塔婆が、板碑と同じ意味をもつものである。
昭和五十六年三月 東大和市教育委員会」
徳治二年銘の板碑表面
この板碑には
・阿弥陀三尊の種子と
・供養者の名前、供養の目的、建立年月が彫られ
明確に読み取れます。
上部に
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が梵字で彫られています。
下部に
逆修、妙慶禅尼、徳治二天七月□日
・妙慶禅尼が
・徳治2年(1307)7月□日、
・生前に、
・阿弥陀三尊にあらかじめ死後の冥福を祈って供養をして(逆修)
・この板碑をまつったことがわかります。
裏面
特に彫りはありません。
大きさ
長さ 73センチメートル
巾 21.5センチメートル
厚さ 2センチメートル
旧地
この板碑がどこにまつられていたかは不明です。
昭和36年(1961)大和町史編纂のため行われた実地調査では
円乗院には文保3年(1319)の阿弥陀一尊像の板碑が最古でした。
その後、寺院内でこの徳治2年(1307)板碑が発見されています。
・徳治2年銘(1307)板碑が建立され
・後の時代に円乘院に運ばれた地は
・現在の村山下貯水池に沈んだ区域を含め
・広範な地域が考えられます。
・いつかその旧地が辿れて
・妙慶禅尼がどのような人だったのかが
・わかる事を願います。
市保存・永仁2年(1294)、小嶋家・永仁4年(1296)、三光院・徳治元年(1306)に次ぐ年代の板碑です。
完全な姿を伝え、魅力的です。東大和市の郷土資料として指定されています。
所在地 東大和市狭山3-1354 円乘院
指 定 昭和55年(1980)4月1日
説 明 中世の仏教信仰を示す貴重な資料
元所在地 不明
徳治二年銘板碑の説明板
円乘院本堂への中央階段の左側に「東大和市郷土資料」の説明板があります。
そこには、現在、次のように説明されています。
「東大和市郷土資料
徳治二年銘の板碑
所在 東大和市狭山三丁目一三五四番地
指定 昭和五十五年四月一日
円乘院が所有する徳治二(一三○七)年銘の板碑は、市内でも古い紀年銘を持つ板碑である。
長さ七三センチメートル、幅二一・五センチメートルの緑泥片岩製で、現在は本堂に保存されている。
板碑(青石塔婆ともいう)は、墓標ではなく、供養塔であり、
現在、墓石のうしろへたてられる木製の卒塔婆と同じ意味をもつものである。
東大和市教育委員会」
ところが、平成元年(1989)、永仁2年の板碑が最古として指定されるまでは、
この板碑が市内最古とされ、次のように、説明されていました。
「東大和市郷土資料
徳治二年銘の板碑
所在 東大和市狭山三丁目一三五四番地
指定 昭和五十五年四月一日
円乘院が所有する徳治二(一三○七)年銘の板碑は市内最古の紀年銘の板碑である。
長さ七三センチメートル、幅二一・五センチメートルの石造(緑泥片岩製)で、現在本堂に保存されている。
板碑(青石塔婆とも呼ぶ)は、墓標ではなく、供養塔でそのまま墓碑としてしようされたことはきわめて少なかったようである。
現在、墓石のうしろへたてられる木製の卒塔婆が、板碑と同じ意味をもつものである。
昭和五十六年三月 東大和市教育委員会」
徳治二年銘の板碑表面
この板碑には
・阿弥陀三尊の種子と
・供養者の名前、供養の目的、建立年月が彫られ
明確に読み取れます。
上部に
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が梵字で彫られています。
下部に
逆修、妙慶禅尼、徳治二天七月□日
・妙慶禅尼が
・徳治2年(1307)7月□日、
・生前に、
・阿弥陀三尊にあらかじめ死後の冥福を祈って供養をして(逆修)
・この板碑をまつったことがわかります。
裏面
特に彫りはありません。
大きさ
長さ 73センチメートル
巾 21.5センチメートル
厚さ 2センチメートル
旧地
この板碑がどこにまつられていたかは不明です。
昭和36年(1961)大和町史編纂のため行われた実地調査では
円乗院には文保3年(1319)の阿弥陀一尊像の板碑が最古でした。
その後、寺院内でこの徳治2年(1307)板碑が発見されています。
・徳治2年銘(1307)板碑が建立され
・後の時代に円乘院に運ばれた地は
・現在の村山下貯水池に沈んだ区域を含め
・広範な地域が考えられます。
・いつかその旧地が辿れて
・妙慶禅尼がどのような人だったのかが
・わかる事を願います。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“徳治二年銘の板碑(市郷土資料),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月21日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/1766.