6.演説会と若手の登場
タイトル (Title)
6.演説会と若手の登場
詳細 (Description)
東大和地域ではじめて演説会が開催されるのは、中和会の第三回の演説会のすぐ後の同年5月6日である。芋久保村の昇隆学校を会場に、東京横浜毎日新聞の竹内正志・吉岡育の二人を招聘して、学術演説会が開催された。発起人は「渡辺・内野・河鍋」と新聞報道されているところから、やはり内野杢左衛門が中核にいることは間違いないだろう。「聴衆無慮百余名、場中立錐の地なき程」と報道されている(東京横浜毎日新聞・明治十四年五月十日)。この時期になると、内野らのリーダー格ばかりではなく、村の中にも関心を抱くものがかなり増えてきたといえるだろう。
それから4か月後の9月25日、今度は狭山村の円乗院で「自由懇親会」が開催されている。これも、東京横浜毎日新聞に報道されているが、発起人は宮鍋庄兵衛・鎌田喜三などで、民権派ャーナリストの赤羽万二郎が招聘されている。鎌田という新しい担い手が登場してきた。当日はあいにくの「濠々たる宿雨」で、「道途の泥濘(でいねい)、殊に甚だし」かったにもかかわらず、「参集したる有志者は殆ど200名」という盛況であった。新聞では200名とあるが、実際に参加した内野の日記には71名と書かれているので、内野の記録が正しいと思われるが、雨天をついて70余名も集まったのは、盛会だろう。会の進行は、まず若手の鎌田がこの会の趣旨を述べ、そのあと会員たちが代わる代わる演説し、それにつられてゲストの赤羽も二つの題目を演説したという。午後3時から始まって、終了は夜の8時ごろになり、さらに内野は、弁士が宿泊した宮鍋の家におしかけ、二次会の懇親を続け、帰宅したのは深夜になったと日記に記録している。延々9時間以上にもなる。参加した人びとにとっては、興奮とあふれる気持ちを抑えきれない思いが強かったのだろう。
それから4か月後の9月25日、今度は狭山村の円乗院で「自由懇親会」が開催されている。これも、東京横浜毎日新聞に報道されているが、発起人は宮鍋庄兵衛・鎌田喜三などで、民権派ャーナリストの赤羽万二郎が招聘されている。鎌田という新しい担い手が登場してきた。当日はあいにくの「濠々たる宿雨」で、「道途の泥濘(でいねい)、殊に甚だし」かったにもかかわらず、「参集したる有志者は殆ど200名」という盛況であった。新聞では200名とあるが、実際に参加した内野の日記には71名と書かれているので、内野の記録が正しいと思われるが、雨天をついて70余名も集まったのは、盛会だろう。会の進行は、まず若手の鎌田がこの会の趣旨を述べ、そのあと会員たちが代わる代わる演説し、それにつられてゲストの赤羽も二つの題目を演説したという。午後3時から始まって、終了は夜の8時ごろになり、さらに内野は、弁士が宿泊した宮鍋の家におしかけ、二次会の懇親を続け、帰宅したのは深夜になったと日記に記録している。延々9時間以上にもなる。参加した人びとにとっては、興奮とあふれる気持ちを抑えきれない思いが強かったのだろう。
制作者 (Creator)
東大和デジタルアーカイブ研究会
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Citation
東大和デジタルアーカイブ研究会, “6.演説会と若手の登場,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月14日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/21.