9.北多摩民権運動と東大和地域の民権家両雄の動き

鎌田家
内野家、手前は蔵敷高札場<br />

タイトル (Title)

9.北多摩民権運動と東大和地域の民権家両雄の動き

詳細 (Description)

 明治17年(1884)10月、大阪で開催された自由党臨時党大会は、地方から参加した民権家の期待を裏切り、解党大会になってしまった。その大会には、すでに北多摩でもその実力を認められていた自由党員の鎌田訥郎(奈良橋村)が出席していた。自分は「我党のますます隆盛を謀り、且つ(党の)維持法を議するは当然の事」と考えていたのだが、「あに図(はか)らんや、解党の事」だった。それもひそかに主だったものだけで「内決」していたと、かれは府中で開催された北多摩自由党の集会で報告していた。地方の力は、党発展のためにまだつき上げる方向であったのだが、自由党指導者側は終息に向かってしまった。日本で初めての政党もわずか三年で幕を閉じてしまったのである。
 この府中の集会では解党後の事が協議され、今後の活動を展開していくためにも、中央自由党とともに解党するわけにはいかないと、府中地域と東大和地域を含む「村山地域」の二か所に集会所を設置することが決定された。このことは、この時期の北多摩自由民権の実力度が府中と村山地域にあったことを証明している。なかでもその中核は内野や鎌田が中心にいた東大和地域であったことは間違いない。
 明治20年(1887)、民権勢力の再結集という状況が生まれ、いわゆる「壮士」とよばれる若者を中心に武相倶楽部が結成された。そこには北多摩の民権家らとともに鎌田訥郎が名を連ねていた。このころから壮士と神奈川県会議員との間に摩擦が生じ、それが発展して県会議員選挙無効の動議に反対した議員に激しい批判が寄せられた。この時、北多摩郡から選出されていた内野杢左衛門は壮士に殴られ、結局議員を引退することになる。同年12月には中村重右衛門(上石原駅・現調布市)ら11名が「県会議員辞職勧告」を提出している。どろどろした政争が始まっていた。この内野の引退は「北多摩政界の構図が大きく変化する」(梅田定宏『三多摩民権運動の舞台裏』)ことのきっかけとなったと見られているが、東大和地域にとっても鎌田と内野の関係に微妙な影をおとすことになった。これ以降鎌田の動きがいよいよ活発になっていくのである。
 翌年、多くの人びとと交わることで「ひろく公共の利益を興」し、「ひろく公共の幸福を増進する」ことを目的とした「神奈川通信所」が旧民権派を中心に設立されるが、ここにも発起人として鎌田訥郎の名が見える。
 鎌田が神奈川県会議員に当選するのは、辞職した中村克昌の後がまとして中村が推薦してたたかわれた1889年の補欠選挙である。この選挙をきっかけに、北多摩政界の中核にいる野崎村の吉野泰三(「吉野派」)と中村克昌(「中克派」)との間に亀裂がはいり、北多摩政界は昭島地域をエリアとする「改進派」も含めて三派に分かれるようになったといわれている(梅田 前掲書)。
 一方の内野も政治活動を休止したわけではなかった。1889年9月に吉野が巻き返しを計るように改進派をまき込んでつくった連合組織「北多摩郡中正派」に参加している。中正派は正式発足時には「北多摩郡正義派」となるが、四十名の発起人の中に、東大和地域では内野を核に関田三七郎ら高木村の四名が参加している。正義派の「主意は会員互に交通親愛して以て本郡の公益を計る」とあるように、政治色を避けた文面になっているが、吉野を支える地盤となっているのである。ここでもまた内野と鎌田基盤がずれていることがわかる。
 北多摩政界の三派分裂の縮図が、そのまま東大和地域にもあてはまるといえよう。以後さまざまな局面で、この政治構図が表出したり、隠れたりしながら展開していくのである。

制作者 (Creator)

東大和デジタルアーカイブ研究会

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Citation

東大和デジタルアーカイブ研究会, “9.北多摩民権運動と東大和地域の民権家両雄の動き,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年4月20日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/22.