5.自由改進党と自治改進党

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5.自由改進党と自治改進党

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 この地域での全国との連携運動は、民権派ジャーナリストといわれる新聞記者を招聘(しょうへい)して演説をしてもらう「演説会」というスタイルが最初だが、北多摩では府中から始まっている(明治13年12月5日、会場は府中の称名寺)。内野はこの会の開催案内を吉野から送ってもらっていた。おそらく参加したのであろう。さらに翌明治14年1月、同じく府中駅に北多摩地域の有志者が144人も集まって、本格的民権結社「自治改進党」を結成する。東大和地域から参加したのは、蔵敷村の内野杢左衛門、内野吉治郎、芋窪村の川鍋正茂、奈良橋村の鎌田佐一郎・関田安太郎、高木村の宮鍋庄兵衛、狭山村の関田粂右衛門の七名であった。おそらく前年の府中での演説会に参加した経験のある内野が、周辺の村むらの有力者に呼びかけたのだろう。
 内野家には「自由改進党盟約」という一枚の文書が残されており、明治13年12月11日と日付が入り、五か条からなっている。この盟約と翌年1月の自治改進党発足時の盟約(これも二種類ある)とは、異なっているが、おそらく内野が出席した12月の段階での準備会で、一定の方向付けが行われたと考えられる。準備会での草案は、まず自治改進党ではなくて自由改進党となっていたことに注目したい。またその第一条には「我党は人民の自由権利を拡張する主義を以て相合す」と自由民権をストレートに表現していたが、自治改進党では「人民自治の精神を養成し」「漸を以(もって)自主の権理を拡充」という文面にかわっている。この間の議論がどのようなものであったかは不明であるが、「人民の自由権利の拡張」をうたい文句にしたスローガンから、「人民自治の精神」の養成と「自主の権利の拡充」にかえたことが、党名変更につながったことが予想される。

責善会から中和会へ
 さらに内野は、隣の地域(現武蔵村山市中藤と小平市小川)のメンバーが中心となって「中和会」という民権結社を明治14年2月に結成する時にも、その準備段階から重要な役割を果たしていた。なぜなら、議論の途中経過を示すような中和会の盟約が、内野の自筆で幾通りも残されているのである(内野秀治家文書)。
 それによると、中和会は最初、「責善会(せきぜんかい)」という名称が考えられ、規約は11条から成り立っていた。「本会の主義は人民の自由を拡充し、権利を伸張せんとするに在り」とあることなどから、自由改進党(のちの自治改進党)の規約第一条ときわめて近い。責善会という名も明治11年に南多摩郡に同名の結社が誕生していることから避けられたのだろう。それが第二段階になると、「本会の主義は正理公道に基づき民人の幸福を享受(最初文案は増益)せんとするに在り」となり、さらに最後は「本会の主義は天賦の自由を伸張し人生の福祉を増益するに至り」となる。この間の議 論の経過は不明であるが、最初は「自由と権利」意識が強烈に反映するかたちになるが、議論を重ねるに従い、次第に表現がやわらかくなっていくのがわかる。各村の豪農層・名望家層などがメンバーの中核を占めていることも、こうした経過をたどる要因になっているのかもしれない。
 中和会の活動は、毎月1回演説会を開催している。記録に残っているのは、隣村の中藤村真福寺で第三回が開催されているが(明治14年3月27日)、会場が近いこともあって内野をはじめ、東大和地域の民権家たちは積極的に参加したことが予想される。この時期の民権運動はすでに村を越えての活動が展開していたのである。

制作者 (Creator)

東大和デジタルアーカイブ研究会

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Citation

東大和デジタルアーカイブ研究会, “5.自由改進党と自治改進党,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年4月26日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/31.