8.千葉卓三郎に心酔した鎌田喜十郎

「鎌田家累代之墓」に喜十郎は葬られている(市内奈良橋4~500先).jpg
鎌田喜十郎の墓石に「千葉先生」と刻まれている.jpg

タイトル (Title)

8.千葉卓三郎に心酔した鎌田喜十郎

詳細 (Description)

 千葉と鎌田家との関係でいえば、もう一人忘れてならない人物がいる。鎌田喜三の弟の喜十郎(慶応元年生)である。親の反対を押し切ってまで上京を強行し勉学を積み重ねてきた兄・喜三のもっとも身近にいて、最初に影響を受けたのが喜十郎である。兄がみてきた世界に、弟がまず最初に強く刺激を受けたのだろう。彼が民権の世界に関心を持ち始めた時期と符合するように、五日市の民権運動の理論的指導者ともいえる千葉が、鎌田家に出入りするようになった。千葉自身はその時、五日市憲法起草の高揚期にあったと言っていい。一人の仙台藩士として、幕末維新期の変革期を体験し、敗北して賊軍の汚名を着せられながら新しい生き方を求めて放浪しつつ様々な 人生経験を積んできた異色の人材・千葉卓三郎に奈良橋の若い青年・喜十郎は、強く魅入られるのである。
 喜十郎もまた兄同様に村を飛び出して上京し「湯島の法律学舎に寄宿」するようになるのも、また特に「法律」に関心を持つようになるのも千葉の影響以外に考えられない。また彼が寄宿するようになったちょうどその時期、実は千葉が結核の病気治療のためにすぐ近くの東京大学付属病院に入院してきたのである。すでに知己を得てもいたが、彼は千葉の病室を頻繁に見舞い、親身な看病を続けた。体力の弱った千葉にかわって、口述筆記までとっていたし、手紙の代筆もしたことがある。そんなこともあって鎌田喜十郎は千葉の最晩年にもっとも親近した、なおかつ最後の「門人」であった。いわば師弟関係にあったのである。結核患者のそばにいたこともあって、彼もまた、まもなく同じ病に倒れる。明治22年(1889)、千葉の死後から6年後、せっかくの咲きかかった花を少しも咲かせることなく、弱冠24歳の若さで夭逝(ようせい)してしまう。
 しかしその時、喜十郎は遺言を残していた。自分が死に水をとって明治16年(1883)に亡くなった千葉を心から敬服していた証拠に、自分の墓には「千葉先生」という文字を刻んでくれと。文字通り彼は千葉を師と仰ぎ心酔していたのであろう。
 いま、鎌田家の墓には遺言通りの文字が刻印されている。31歳の短い生涯であった「千葉先生仙臺之人」という文字の隣が、若い青年喜十郎の戒名の「修岳院仁智明達居士」となっており、千葉と喜十郎は並んでいる。
 このように鎌田にとっては、千葉との出会いは単なる師弟関係を越え、奈良橋村と五日市町も越え、精神的な結びつきに到達していたといえる。三多摩自由民権運動が、全国の他の地域と比較してもひけを取らない先進的な活動を展開したその背景には、こうした狭い地域共同体を越えた人的交流が底流にあったからともいえるのである。
 この地域の明治20年代の担い手は、結局、喜三改め訥郎(とつろう)が担うことになる。

制作者 (Creator)

東大和デジタルアーカイブ研究会

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Citation

東大和デジタルアーカイブ研究会, “8.千葉卓三郎に心酔した鎌田喜十郎,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年4月19日, https://higashiyamatoarchive.net/omeka/index.php/items/show/32.