最初の高札

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 高札の書き換え
 慶応4年(1868)8月8日です。元佐賀藩士・古河定雄(一平)が武蔵国知県事になりました。8月28日、古河の部下から支配地に、次の通知が届けられました。
 「高札を、あたらしい文面に書き替えて立てさせることになるから、在来の分を除去し、新規に板証を選び、一カ村に五枚ずつ大小を準備し、削りあげたものを泊り宿へ差出すよう準備せよ。・・・」(『府中市史』下p32)
 東大和市域では、芋窪村、高木村、清水村の旗本領が古河定雄の管轄地(他は江川太郎左衛門)でした。ここにも、この通知は届けられたでしょうが残されていません。
 しかし、江川太郎左衛門の管轄下にあった蔵敷村の名主・杢左衛門が、幸いにも、その後の経過を記録されました。
 慶応4年(1868)は9月8日に明治と改元されましたので、ピッカピカの明治元年(1868)11月3日です。
書換願
 明治元年(1868)11月3日、蔵敷村の名主・内野杢左衛門が新しい高札の書き換えを願い出ました。
 「辰(明治元年)十一月六日御高札の墨入れ願
 恐れ多いことですが、書き付けをもって願い上げます
 武州多摩郡蔵敷村の惣代名主杢左衛門が申し上げます、このたび、王政御一新の御布告の趣をありがたくお受けし、御制札の書き替えをお願い致したく、新板三枚を添えてお願い申し上げます
 何卒、御慈悲を以て御墨入れをして下されますようお願いいたします、以上
 
              当御支配所 武州多摩郡蔵敷村  役人惣代 名主杢左衛門
  明治元年辰十一月三日
  韮山県 御役所」
です。(『里正日誌』10p167)
新しい高札
 この願い出に対して、明治元年(1868)12月19日、新高札に墨入れが行われ、村に届きました。従前高札場に掲げられていた4枚を取り去り、新しく3枚を掲げました。
 さすがに時流に合わず、特に3枚目は批判もあり、これらの高札は明治6年(1873)2月24日、取り除かれました。杢左衛門は、「杢翁記録」に次のように記しています。
「明治六年二月廿四日、従来の高札は一般熟知の事なので、今後、取り除き、いろいろな布告が出されるたびに、人民へ熟知のため、およそ三十日の間掲示せよ、と太政官より達せられた。そこで、これまでの高札は撤去し、掲示場と改称した。」(意訳 大和町史研究6p68)とあります。
 撤去の理由が、皆が詳しく知っていることだから、とは、さすがに内野さんも呆れたことでしょう。この時をもって、高札場は掲示場になり、現在は東京都の文化財として旧跡の指定を受けて保存されています。
 高札が書き換えられている最中、明治元年(1868)11月17日、東大和市域の村々は、ますます過重となる助郷に駆り出されました。特に江戸時代にはなくて、明治になって新しく課された中山道・蕨宿に関する助郷の免除運動に精力を取られていました。新高札を目にした村人達の冷めた眼差しが浮かぶようです。

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高札の書換え
慶応4年(1868)8月8日です。元佐賀藩士・古河定雄(一平)が武蔵国知県事になりました。8月28日、古河の部下から支配地に、次の通知が届けられました。  「高札を、あたらしい文面に書き替えて立てさせることになるから、在来の分を除去し、新規に板証を選び、一カ村に五枚ずつ大小を準備し、削りあげたものを泊り宿へ差出すよう準備せよ。・・・」(『府中市史』下p32)…

五箇条の御誓文(内野杢左衛門の書き留め)
 ご一新で、新しい時代に入りました。東大和の村々にも、新政府軍の動向が伝えられ、旧幕臣の帰国や浪人などの往来があり、厳しい空気が生まれていました。そのような中で、早速、「五箇条の御誓文」(慶応4・1863年3月14日発布)が伝えられたようで、蔵敷村の名主・内野杢左衛門は、資料のように書き留めています(『里正日誌』10p52)。

高札3枚目 キリシタン禁止
3枚目
 定
 一 邪宗門之儀ハ是迄御制禁之通堅く可相守事
 一 切支丹宗門之儀ハかたく停止之事

一 邪宗門(じゃしゅうもの)之儀ハ是迄(これまで)御制禁(ごきんせい)之通堅(かたく)く可相守(あいまもるべく)事
一 切支丹宗門(きりしたんしゅうもん)之儀ハかたく停止(ちょうじ)之事

 の3枚でした。内野杢左衛門が書き写した「広く会議をおこし」でも、「知識を世界に広め」でもありませんでした。杢左衛門は思わず、「ため息をついた」と子孫の方からお聞きしました。
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