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大まかな歴史の流れ 近世3

1_20年で野火止用水際まで達成.jpg
生産性の低い新田 農間稼ぎ
1 空堀川までが日常生活圏
早くに済ませた新田開発 一般的に大々的な武蔵野の新田開発は享保7年(1722)、江戸日本橋高札場に掲げられた武蔵野新田開発奨励のお触れ以降急速に進んだとされます。
しかし、東大和市域内では承応4年(1655)、野火止用水完成後間もなくから開墾が始められ延宝期(1673~1680)…

大まかな歴史の流れ 近世2

1一挙に進んだ江戸の市街地.jpg
1玉川上水・野火止用水の開削、細長い村
江戸市中の整備・家臣団の集住 …

東大和市中世の神社と寺院

1東大和市中世の神社.jpg
 東大和市の中世、狭山丘陵に板碑が建立されました。その一方で、谷ッを中心に集落が形成され、神社や寺院の創建が進みます。その位置関係は下図の通りです。
東大和市内中世の神社、寺院の創建関係の記録、伝承は次の通りです。
神社
・豊鹿島神社(鹿島大明神) 創建伝承 707(慶雲4)…

貞治七年(1368)の板碑いずこ

1狭山之栞掲載図.jpg
 貞治七年(1368)は河越氏が時の幕府、関東管領上杉憲顕に反乱を起こし、武蔵に平一揆(へいいっき)と呼ばれる戦乱が起きた年です。河越氏は上杉軍に攻められ、河越館で落城の憂き目に遭いました。それに加わった山口氏の高清が自害を遂げたと伝えられます。
 この時、山口氏に隣接する東大和市域では何が起こったのか?
 郷土史を学ぶ者にとって猛烈な関心事です。たった一つ、この年を語る物証の板碑がありました。
『新編武蔵風土記稿』は、「古碑 一基…

板碑

1三光院境内にまつられている板碑.jpg

建武三年(1336)の鐘(豊鹿島神社)

1『新編武蔵風土記稿』による記述.jpg
 元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めで、近接する小手指、久米川、分倍と目の前で戦乱を目にした東大和の人々。鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は、元号を建武と改めました。日本の時代が大きく動いた時でした。その時、東大和市域はどのような状況にあったのでしょうか。僅かな手がかりがあります。
 芋窪の豊鹿島神社に、建武3年(1336)銘の刻まれた鐘があったことが伝えられます。
豊鹿島神社は慶雲4…

大まかな歴史の流れ 中世2

1義貞軍と鎌倉軍の動き.jpg
南北朝から室町時代
1 新田義貞鎌倉攻めの時
新田義貞挙兵 元弘3年(1333)、…

東大和市の古墳時代

1武蔵の古墳と東大和市.jpg
一般に、古墳時代は3世紀中頃から7世紀後半までをさします。この時代、残念ですが東大和市域では古墳が発見されていません。東大和市は北武蔵、南武蔵の中程に位置します。魅力的な
北武蔵 埼玉(さきたま)、比企・大里
南武蔵 多摩川流域
の古墳群の中間にあって古墳のない地帯とは残念です。
最も近い古墳が所沢市の
・岩崎古墳群(山下後・村中・膳棚東の3遺跡 6世紀後半~7世紀初頭)
・海谷古墳群(海谷遺跡 …

芋窪礫層 古い多摩川が運んだ石ころ

11蔵敷_熊野神社_本殿両脇の小さな崖に芋窪礫層の露頭.jpg
 「狭山丘陵は古い多摩川が削り残したんです」
 「また冗談云って!」
 「絶対ごまかされないから!」

 東大和市蔵敷の熊野神社の本殿を拝観し終わって、一息ついての話題です。…

(3)十七番札所 霊性庵

霊性庵(地元では嶺松庵とも云う).jpg
狭山観音堂
本 尊 如意輪観音(真言宗智山派)
所在地 東大和市狭山2-1330
(墓地の地番が1331~1336まであるため、観音堂をそれらの番地とする場合もあります)
詠 歌 きぎ茂る 峰の庵を訪ねきて うれしくもきく 法の松風
地元では嶺松庵とも云います。
御朱印は円乗院で頂けます。
歴史を辿ります。
『新編武蔵風土記稿』は
観音堂 字南分にあり、二間半に五間、南向、如意輪の座像木にて作る、丈八寸許り、
古碑 一基…

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(2)十六番札所 三光院

第十六番札所_三光院観音堂.jpg
観音堂
所在地 清水四丁目1132番地(三光院境内)
本 尊 千手観音
詠 歌
補陀落や 大慈大悲の 慈眼坂 来り迎うる…

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(1)十五番札所 清水観音堂

十五番清水観音堂.jpg
 東大和市域最初の狭山三十三観音の札所です。十四番瑞光山法珠寺(東村山市)から西に向かって500メートル程です。
所在地 清水一丁目755番地
本 尊 聖観音
詠 歌
  月影も 清くうつれる 水の面 深き誓いを…

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庚申塚

現在の蔵敷庚申塚.jpg
所在地  蔵敷2-508-3 昭和49年9月20日指定
指定理由 近世のこの地方の民俗信仰及び地名を知る資料として価値のあるものである。
蔵敷二丁目の青梅街道から芝中団地のほぼ中央を通り、中砂の川橋を越えて新青梅街道に達する道があります。また、奈良橋庚申塚から斜めに北西に向かって進み、芋窪一丁目で青梅街道に達する道筋があります。
いずれも昭和の中頃までは主要な広域の交通路でした。この二つの道が交差する箇所(蔵敷2-508-3…

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